2005年07月10日

岡本太郎

先月は、東京出張中の20日が唯一の休日でした。生憎、月曜日に重なってしまい、ご承知のように月曜日は日本中の99パーセントの美術館は休日で、どこか開いてるところはないかと調べたところ、東京近郊では唯一、青山の「岡本太郎記念館」が開館していました。それにしてもどうして月曜日に一斉に休まなければならないのでしょう。世間には月曜日が休みだという人も大勢います。パリなら、ルーブルが火曜休館で、オルセーは月曜休館です。せめて東京国立博物館が月曜休館なら、東京国立近代美術館は火曜日にするとか考えてほしいものです。いっそうのこと「月曜美術館」として月曜日だけ開館する美術館を誰かやったらどうでしょう。さて、憤懣は憤懣として、そのお陰で今回のテーマは「岡本太郎」となりました。先ずいつものように言い訳ですが、今、我が画廊にて「飛騨・美濃 郷土の先人遺墨展」を開催中で、多分、会期中に今月の、本当は先月の美術館マンスリーをアップロードできるだろうと思いますが、このところ遺墨展の準備など多忙を極め、毎月一回書くという自己目標を果たせていないことには多少の同情を頂くとして、今回遅れたのはそれだけではなく、私のなかで、ただならぬ「岡本太郎シンドローム」というか「岡本太郎ショック」というか、そんな自分でも意外な精神状況に陥ってしまい、ちょっと真剣に「岡本太郎」研究をしておりました。研究と言っても岡本太郎の著作、岡本太郎について書かれたものを読むというだけですが、次々読みたい本が増えていき、ずるずると日が過ぎてしまいました。まだ読みたい本、読まねばならない本が残っていますし、この今の心理状態から抜け出して、冷静に注意深くもっと真剣に岡本太郎と向き合いたいのですが、そんなことを言っていますとますます書けなくなって、生活にも窮してきますので、意気込みもほどほどにして書き始めることにいたします。

岡本太郎記念館は、元々、岡本一平、かな子、太郎が暮らした場所に建ち、その家は戦争で焼失しましたが、戦後岡本太郎のアトリエ兼住居が建てられ、岡本太郎の死後、岡本太郎のパートナーだった故岡本敏子さんが館長となり、そのまま岡本太郎記念館となって一般公開されています。岡本太郎の友人でル・コルビュジェの愛弟子という建築家坂倉準三の設計による建物とその佇まいは、東京山の手の有名文化人の自宅に共通するスノッブな嫌みを湛えてはいますが、内外ともブロック剥き出しの建築は今見てもお洒落です。一階に居間とその向こうにアトリエがあり、入るとすぐにネクタイを締めた岡本太郎人形が私たちを「何だ、お前は」と迎えてくれます。居間とその外側にシュロやバショウの木の植えられた庭があって、「坐ることを拒否する椅子」やいつものあの顔をした太陽や犬の立体作品が無造作におかれています。アトリエは、ほとんどそのままの状態で保存してあり、描きかけなのか完成しているのかはわかりませんが、何十枚ものカンバスが棚に並んでいるのには驚きました。私が尋ねた日は二階の展示室で「透明なリアル」展と題して若い頃の素描が何点か展示してありましたが、ここは美術館のように多くの作品に触れるための場所ではなく、偉人の生家を訪れるのと同じく、「ここで絵を描いていたんだなあ」とか「ここに座っていたんだなあ」と有り難く感慨に耽るための場所なのでしょう。私はそういうことが苦手で、売店で「芸術と青春」「沖縄文化論」「青春ピカソ」の3冊を買って早々記念館を後にしました。

私と岡本太郎の出会いについて・・

1970年、大阪万博が開かれたとき、私は9歳でした。その時の世間の様子は多くの方がご記憶だろうと思いますが、日本中が万博熱に浮かれたその半年間、私は寂しい気持ちで過ごしていたことを思い出します。私の父親はあの「太陽の塔」のある万博に連れて行ってはくれませんでした。私の父親は五人兄弟の長男として、母親だけの貧乏な家に育ち、当然の成り行きのようにマルクス青年になり、古本屋と私塾をしながら一人だけぽつんと「国民所得倍増計画」から取り残されたような人でしたから、私は子供ながらに行けない理由を悟っていたように思います。 

「痛ましき腕」の思い出・・

私は今でこそ通俗的な価値観の中に身を置く生活をしておりますが、二十前後の頃は画家になることを夢見ていましたので、人並みの画家志望の青年と同じように「ゴッホの手紙」を読み、セザンヌやモディリアーニの真似をしたり、シケイロスやカンディンスキーらの画集を見て感動し、ルオーのような画家になりたいと思っていました。そんな頃、私はどんな偉大な画家の作品より岡本太郎の「痛ましき腕」が好きでした。その絵は私の全青春の悲しみや苦しさや悩みをすべて代弁し、肩代わりしてくれているように思いました。私は本から切り抜いた「痛ましき腕」の印刷画を額に入れ壁にかけていました。

私は翌月の同じ20日、川崎の岡本太郎美術館に行って来ました。当然行かねばならなくなったからです。岡本太郎という人は絵を売らなかったそうです。この美術館は岡本太郎が所有していた1800点近い作品の寄贈を受け平成11年に開館しています。新宿から小田急線に乗って向ヶ丘遊園駅まで行き、そこからはタクシーに乗りましたが、歩いても良かったかなというところで降ろされ、そこからは多摩丘陵の一角に位置するという生田緑地公園内を5分ほど歩き、杉林の木漏れ日の下を過ぎるとその奥の高台に美術館はあります。残念ながら「痛ましき腕」を見ることはできませんでしたが、その他の主要作品はほとんど見ることができました。「夜」「森の掟」「重工業」、どれも初めて見ました。誰もが感じると思いますが、画集でしか見たことのない絵を実際に見たときの何となく気恥ずかしいような喜び。私はこれまで多くの美術館や博物館に行きましたが、これほど楽しく浮き浮きした気持ちになったのは初めてです。奥の方からあの声が響いてきます。はやる気持ちを抑えて順番にゆっくり足を進めると、ディスプレイに青山の自宅でフランス語で芸術論を展開している岡本太郎が映し出されています。別のディスプレイにはピアノを激しく叩く岡本太郎が「芸術は、爆発だ」と叫んでいます。また別の大きなモニターにはメキシコを巡りメキシコについて語る岡本太郎が映し出されています。あっという間に時間が過ぎました。

私は今も岡本太郎の書いた本を、岡本太郎について書かれているものを読んでいます。岡本太郎とは何か、わたしにとって岡本太郎とは何だったのか。「縄文の美」の発見者である岡本太郎。日本の社会、日本の美術状況のすべて、作家に対しても学者に対しても日本のすべての現在に対して痛烈な批判と提言を繰り返した岡本太郎。日本の権威、日本の伝統の崇拝者に対し真っ向から対決し「法隆寺は燃えてけっこう、私が法隆寺なる」と言い放った岡本太郎。ここで岡本太郎の言葉をなぞるのは止めにしましょう。もし、私のこの拙文を読んでくださり、ひょいと興味が起こったら、是非「日本の伝統」「今日の芸術」の二冊を読んでみてください。どちらも今は文庫本で読めます。私はこう思います、私は岡本太郎の「痛ましき腕」が、日本の現代美術の最高傑作であると信じていますが、しかし岡本太郎の芸術などどうでもいい。太陽の塔などぶっ壊してもらってけっこうです。もっと大事なことがあります。思わせぶりですが私は気付いています。ともかく一人一人が自分で考えてみるということです。そして少しでも岡本太郎のように「天真爛漫」に生きられればそれでよいと思います。

さて、最後に私の「岡本太郎宣言」というかご報告です。

当画廊は一応、岐阜市中心部メイン通り沿の3階建ビルの1階を借りて営業をしておりますが、地方都市空洞化の波といいますか、2年ほど前に2階の消費者金融が、半年ほど前に3階の弁護士事務所が退去し現在当画廊のみがこのビルの店子という状態です。そこで思い切ってビルを全部借りることにしました。一階の長良川画廊はそのまま2階に表具工房を移転し、3階をさてどうしようかということで、ちょっと大風呂敷ではありますが、長良川画廊では長良川を上流に遡るごとく歴史を過去へ過去へと追い求めているので、今度は逆に長良川を下流に下るがごとく、現代を、未来を、探求する「場」にしてみようかと。以前にも書きましたが、今という時代を掴んで、閉塞した「今」を打ち破ってその向こうに行ってやろうということです。大変であろうと思います。長良川を遡れば、次第に川は細く美しく大日岳の山深く源流に到達します。伝統に身を寄せることは父の胸に抱かれるごとく幸せなことです。しかし、長良川を下ることは、次第に川は広く濁り、やがて河口に聳える長良川河口堰を魚道でも抜けてその先に出れば、汚れた伊勢湾があり、その向こうには果てしない太平洋が広がっているわけです。それでも「岡本太郎」です。伝統に対して創造。「対極主義」。面白そうではないですか・・。そこで3階は「ナガラガワ・オルタナティブ・スペース」としました。「オルタナティブ・alternative」とは、「代わりの、もう一つの」という意味ですが、展示空間の新しい提言、新しい在り方、作品を展示するだけの空間ではなく、異領域との交流を探る場、簡単に言えば、「多目的空間」。まあ、そんなところです。あまり考えを固定せず、正岡子規の言葉を借りて言うなら、一の報酬で十の仕事をするような人を応援したいと思っております。

岡本太郎記念館
「岡本敏子の60年」展 
平成17年7月9日〜10月3日

川崎市岡本太郎美術館
《明日の神話》完成への道展  
平成17年7月16日〜9月25日
posted by 長良川画廊 at 16:43| Comment(0) | 日記