2005年11月02日

矢橋六郎展

今回の美術館マンスリー、以前にまして間隔が空いてしまいました。またまた言い訳がましいのですが、10月17日の夜、やれやれ今日は忙しかったと和食屋さんでビールを一口飲んだ後、急にフウーと意識が遠のくような気がして、倒れたのではないのですが、気持ちが悪くて、胸がざわめくというか、死が隣にやって来たというか、言葉では表現が難しいのですが、動悸とか目眩でもなく、不安な気持ちと言うのが一番近いのかもしれませんが、そんな状態になって、その日は家に帰って早く横になりましたが、次の日もどうも頭が重いので、脳神経外科でCTとMRIを撮ってもらったところ、脳梗塞ではないのですが、血管が細くなっているということで、一過性脳虚欠発作(TIA)と言って、一時的に脳の血流が悪くなりそういう症状になったのではないかということでした。その後五日ばかり点滴に通院して、この頃は大分良くなったのですが、それ以来、脳梗塞を心配して、自宅から画廊までの行き帰りを片道40分歩き、酒は一日缶ビール1本(350t程度なら飲んだ方が良いそうです。)、食事は、好物の肉は減らして、嫌いな鰯や秋刀魚など魚、野菜中心。急に年寄りになったような生活を送っています。自分では、一過性脳虚欠発作(TIA)ではなく、ストレスによる緊張性頭痛か鬱病のような神経の疾患ではないかなとも思うのですが、どちらにしても心身共健康であることがなによりです。金儲けは褒められてもしれてます。「金がない、儲からん」とあくせくせず、久松真一の「人類の誓い」の一節にあるように、「各自の使命に従ってそのもちまえを生かし」、日々の生活をこつこつと積みかさねていくことでしょう。さて、そんなわけで、少々頭が重いですが、この「美術館マンスリー」も続けていかなければなりません。

今回は、郷土の洋画家「矢橋六郎」です。

「矢橋六郎」の名は、地元ではそれなりに知られていますが、知られていると言っても、矢橋六郎の価値を本当にわかっている人がどれだけいるのやら、私は多種多彩に、郷土の画家を誰よりも多く商っていますが、矢橋六郎を買おうという人の少ないこと。岐阜はつくづく田舎です。特に矢橋六郎の生地大垣はもっと田舎だなー。この画家はお洒落な絵しか描きませんから、田舎もんではわからんのです。矢橋六郎は、山口薫と比べても、森芳雄と比べても、決して引けを取りません。長良川画廊なら、そんないい画家の油彩画が、20万円以下で買えるのです。「何でこういうまともな作家が売れないの?」というのは矢橋六郎だけではありませんが、特に矢橋六郎は、私自身が好きですから、力説したくなってしまいます。

矢橋六郎は、明治38年(1905)岐阜県不破郡赤坂町(現大垣市)に、県下屈指の素封家一族で、矢橋大理石商店を創業した矢橋亮吉の第六子として生まれます。大垣市の西方に、化石の宝庫としても有名な金生山という山があり、現在も矢橋一族企業によって、石灰岩の採掘が行われています。父の亮吉は、この金生山で産出される大理石を中心に、石材の加工と販売を始めました。この父の始めた事業を長男の太郎がさらに発展させるのですが、後々、この家業との問題が、画家としての矢橋六郎にとって、ある「柵(しがらみ)」となっていきます。さて、それはさておき、超素封家の子息として何不自由無く育った矢橋六郎は、大正14年(1925)東京美術学校西洋学科に入学します。同級には山口薫がいて、在学中からともに批評会「春秋会」を毎月開催したり、川島理一郎の金曜会に参加します。昭和5年(1930)同学を卒業し、その年の7月に渡欧。山口薫、村井正誠とも合流し、ユトリロ、キスリング、ブラマンク、シャガール、モディリアーニなど、エコール・ド・パリと呼ばれる個性豊かな画家たちから大きな刺激を受けて、昭和8年(1933)山口薫とともに帰国します。昭和9年(1934)長谷川三郎、大津田正豊、津田正周、村井正誠、山口薫、シャルル・ユーグらと「新時代洋画展」を結成。昭和12年(1937)「新時代洋画展」のメンバー、村井正誠、長谷川三郎、山口薫、大津田正豊、津田正周、瑛九、浜口陽三らと「自由美術協会」の創立に参加。(会友に難波田龍起、小野里利信ら14名、顧問に今泉篤男ら13名の評論家。) 昭和25年(1950)「自由美術協会」の意見対立により、村井正誠、山口薫、中村真、荒井龍男、植木茂、小松義男、朝妻治郎とともに同会を脱会し、同年、同メンバーとともに「モダンアート協会」の創立に参加します。その後、後述しますが、多くの「大理石モザイク壁画」を制作し、家業の矢橋大理石商店の要職に就きながらも、昭和34年(1959)武蔵野美術大学講師、昭和37年(1962)東京芸術大学講師を歴任し、昭和63年(1988)82歳で死去します。矢橋六郎は、日本近代洋画の革新に重要な役割を果たす、「新時代洋画展」「自由美術協会」「モダンアート協会」の中心メンバーとして活躍し、生涯の友人である山口薫、村井正誠らとともに「モダンアートの旗手」の名に相応しい画家でありました。

この展覧会は、年代順に作品が並べられ、生誕100年記念に相応しい内容になっています。また今回は油彩画の仕事ともう一つ、モザイク壁画についても写真パネルを使って紹介がなされています。彼は油彩作家であると同時に、日本の「大理石モザイク壁画」の第一人者でした。矢橋六郎が原画から制作したものとして、昭和37年(1962)大名古屋ビル《海》(現存)、昭和38年(1963)日比谷日生ビルフロアー(現存)、昭和39年(1964)名古屋駅《日月と東海の四季》(現存せず)、昭和40年(1965)岐阜県庁《春・夏・秋・冬》(現存)、東京交通会館《緑の散歩》(現存)、昭和41年(1966)自民党本部《実りの朝》(現存)、中日ビル《空の饗宴》(現存)、昭和43年(1968)大垣市民会館《花の如くに》(現存)、大垣商工会議所《流水》(現存)、中野区役所《武蔵野に想う》(現存)、昭和44年(1969)静岡県立文化センター《天地創造》などがあり、全国80ヶ所以上の壁や床にモザイク壁画を制作しています。

矢橋六郎は、昭和25年(1950)「モダンアート協会」の創立の後、故郷大垣に戻ります。戦後まもない復興期のなかで、昭和21年(1946)矢橋大理石商店の創業者で父の亮吉が亡くなり、矢橋大理石商店を継いだ兄次雄を手助けするために、家業の矢橋大理石商店の仕事に軸足を移さざるを得なかったようです。そして、家業の一部としての、大理石壁画の制作に新たな表現の場を広げていくことになるのですが、『幾千万年の自然の力を経て出来た、これ等石材の持つ色彩は深みのあること、混じり気の全く無い事、又どの色を配列しても決して反発し合わない事、絶対に退色しない事等、絵具とは全然特異の性格を持っている。ローマ人はモザイクを永遠の絵画と称しているのも、うなずけると思う。』(矢橋六郎モザイク作品集・求龍堂)という、古代ギリシャの遺跡や壁画に触れたヨーロッパでの体験を得て、『私は子供の時から石の中に育ってきた。』(矢橋六郎モザイク作品集・求龍堂)という矢橋六郎にとって、それは芸術家としての一方向であると同時に、また、画家としての挫折の始まりであったようにも思えます。私は、矢橋六郎は、いい画家であると思いますし、いい画家として間違った評価がされなければそれで不満はありません。その上で敢えて言うのですが、矢橋六郎の芸術は、もう一つテクニックを超えていく何かが足りないように感じるのです。それは山口薫でも同じではないかと思います。幸か不幸か、彼らは、ピカソから約20年遅れて生まれてきて、ピカソやマチスになれるとは思わなかったし、なろうとも思わなかった。身体をすり減らし、ドロドロになってまで、日本のアバンギャルドになろうとは思わなかったし、己の生の証を打ち立てようとも思わなかった。彼らは、頭が良かったのか、意気地がなかったのかは知りませんが、「絵描き」などという、とうに店仕舞いしたほうがいい商売をなんとかやりくりして続けていく道は、結局、具象表現のなかにしか見いだせないと考えたのではないか、そして結果、彼らとしては「モダン」であるしかなかった。

私の自宅アパート、食堂兼居間の白い壁面、そこが我が家の絵を掛ける一等地で、そこに今掛けてあるのが、矢橋六郎の花の絵です。その絵は見る側に何かを語りかけてくるのではなく、ただ静かに美しくそこにあるように感じます。

ただそこにあるように描くこと―
それが矢橋六郎のモダニズムであるのかもしれません。


矢橋六郎



 


さて、最後にご案内です。来年の1月13日から3月12日まで岐阜県美術館で「日本近代洋画への道 ― 山岡コレクションを中心として」が開催されます。できれば、それに併せて矢橋六郎の絵画も含めて「岐阜県の洋画家」というテーマで展覧会を企画できたらと考えております。



生誕100年記念 矢橋六郎展 ― 悠々なる色彩 ―

平成17年10月15日-11月13日

大垣市スイトピアセンター・アートギャラリー

posted by 長良川画廊 at 17:06| Comment(0) | 日記