2008年07月21日

靖国神社「遊就館」

靖国神社「遊就館」は、靖国神社境内にあります。
地下鉄東西線の九段下駅1番出口を出て、そのまま九段坂を靖国通りに沿って歩き始めると、すぐに靖国神社の「大鳥居」が見えてきます。前回の「永青文庫」で触れましたが、坪内祐三さんの『靖国』(新潮文庫)には、このあたりが山の手と下町の境界がもっともレアリテを持って体感で出来ると記してあります。

《東京の西北に位置する台地に武家屋敷が並び、東南の低地には多く町人が住んでいた。この明確な住み分けが山の手・下町の二分割だった。この台地(山の手)と低地(下町)の境界は、今でも注意深く見れば、東京中のいたる所で目にすることが出来るのだが、もっともレアリテを持って体感で出来るのは、靖国通りを、神田須田町方向から神保町を抜け、九段下に至り、九段坂を見上げた時である。その時私たちの背後には下町があり、九段坂の向こうには、もちろん坂下から窺い知ることは出来ないけれど、緑多い山の手の町並みが広がる。九段坂下から飯田橋方面に向かう目白通りはかっての山の手と下町の境界線でもある。つまり靖国神社は、山の手、下町の境界の山の手側にある高台の上から下町を睥睨しているのだ》(『靖国』)。

わたしは、九段下駅1番出口を出て、靖国神社とは反対方向に坂を下り、九段下の目白通りから靖国神社の方向を見上げ、また靖国神社に向かって歩き始めました。坪内祐三さんの『靖国』に書かれているように、九段坂を見上げながら、車が行き交う片側二車線の靖国通り左手の千鳥ヶ淵周辺、高燈籠や品川弥二郎の像、田安門の先の仏塔のような武道館の大屋根などを見渡し、実践倫理宏正会の本部ビル、隣の日本電機大学のビルの横を通り過ぎると、目の前が靖国神社参道です。

《下町・山の手の東京二分法は、ある時期まで、昭和三十年代ころまでは有効に働いていた。明治維新後、東京は、計画的なもの非計画的なものを合わせて、ほぼ二十年に一度の周期で、大幅ないじくりが行われる。市区改正条例が施行され、近代都市への第一歩がを歩みはじめたのは明治二十二年(一八八九)のことである(明治六年五月の火災で焼失した皇居が再建され、明治天皇が赤坂離宮から、もとの江戸城であるその場所に移ったのもこの年である)。二十年後の明治四十二年には、日露戦争の帝都にふさわしいモニュメンタルな建物が次々と建設される。両国国技館が六月に完成し、日本橋や帝国劇場の開通(場)式が行われるのは翌々年、そして前年には日比谷図書館が開館し、東京中央停車場(東京駅)の起工式が行われていた。つまり明治二十年ごろに始まった近代東京の街作りが、ほぼ完成を見るのが日露戦争(明治三十七年〜三十八年・一九〇四〜〇五)直後のこの時期である。そして大正一二年(一九二三)の関東大震災、昭和二十年(一九四五)の東京大空襲という二大災厄を経て、太平洋戦争が終わるころには、東京から、江戸以来の建物は、皇居の一部を除いて、ほぼすべて消えてなくなってしまった。きれいさっぱりと。戦後はさらに、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す。しかも、それもまた、およそ二十年周期である。その第一が昭和三十九年(一九六四)の東京オリンピックである。昭和四十四年から映画化が始まった『男はつらいよ』によって、葛飾柴又までが下町に加えられてしまったけれど、東京人の頭の中の地形図から、下町・山の手の本来の意味や境界線が失われていったのは、多分このころのことだろう。そして下町の消失は一九八〇年代終わりのバブル景気による「街殺」によって決定的なものになる》(『靖国』)。

わたしは、靖国神社参道のすぐ手前まできて、後ろを振り向き、九段下方向から視界を徐々に広げてみました。そこには、わたしの知っている、見慣れた、秩序の乏しい、東京らしい都会の景観があります。山の手と下町、境界、睥睨・・。《東京の西北に位置する台地に武家屋敷が並び、東南の低地には多く町人が住んでいた》というかつての東京。残念ながら、坪内祐三さんが体感されたようなリアリティーをわたしは感じることができないようです。もっとも、《一九八〇年代終わりのバブル景気による「街殺」によって決定的なものになる》というそれ以降から、東京へぼちぼち通うようになった《東京人》ではないわたしには、それは無理からぬことなのかもしれませんが。それとも、「靖国」という回廊を巡って、再びここに戻って来たとき、わたしの視線の先には、また違った景観が広がっているのでしょうか。

さあ、前置きはこの位にして、靖国神社「遊就館」へと足を進めていくことにしましょう。

地下鉄東西線の九段下駅1番出口を出て、緩い勾配の九段坂を100メートルほど上り、靖国神社参道に入ると、最初に石製の「大燈籠」があります。これは西南戦争の官軍側の戦歿者慰霊のために、黒田清隆の編成した別働第二旅団によって奉納されたということです。そしてその先に巨大な鉄製の日本最大級という大鳥居があり、靖国神社の前身「東京招魂社」の生みの親であり、日本陸軍の創始者といわれる「大村益次郎」の銅像があります。どちらも行き交う人が仰ぎ見るようにそびえ立っています。そこからさらに進と、また、銅製としては日本一大きいという大鳥居があり、そこを過ぎるといよいよ靖国神社の正門です。正式には「神門」というそうですが、その扉には直径1.5メートルの金に輝く菊の御紋が張り付いています。そして、その「神門」の向こうに、人々が礼拝する「拝殿」があります。わたしは、拝殿に手を合わせる人々を後ろから一瞥して、「遊就館」へと向かいました。

今回の美術館マンスリーのテーマに靖国神社「遊就館」を選んだのは、戦後、靖国問題として、いろんなことが言われるなかで、とにかく、靖国という場所に行ってみて、わたしなりに考えを纏めてみたいと思ったからです。わたしは結局、靖国神社「遊就館」に四度来ることになりました。それは、できるだけ正確にルポルタージュするために時間を要したということですが、靖国神社という場所に、何かわたしの気づかない魅力、それは魔力かもしれませんが、わたしを引きつけようとする何かがあるのかもしれません。それはともかく、靖国神社「遊就館」は、靖国神社の一施設であり、靖国神社全体の意思を具体的に示し現す場所です。また、その歴史解釈、展示内容には多くの問題提起があるので、少し長くなり且つ記述的になりますが、靖国神社「遊就館」の展示について順を追って、できる限り正確に忠実に記しておきます。

(ここから続く遊就館ルポルタージュは、遊就館に行ったことがある方、または、行こうと思っている方は読み飛ばしていただいて結構です)


遊就館


遊就館は、拝殿を正面に見て右方向にあり、コンクリート造の本体に東洋風の屋根をのせた帝冠風の本館と最近の自動車ディーラーのようなガラス張りの新館から成っています。新館にある入場口から入ると、明るい日差しが差し込む玄関ホールには、かつて日本軍によって建設されたタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道を走った蒸気機関車C56や、零戦、大砲などが展示してあります。ここからエスカレータで二階に上がり順番に展示室を巡っていきます。まずエスカレータを上がって正面に日名子実三の「兵士の像」が置かれ荀子勧学篇「君子居 必擇郷 遊必就士 君子は居るに必ず郷(きょう)を擇(えら)び 遊ぶに必ず士に就く」という遊就館の名の由来について説明があります。そこから二階踊り場には中央に中村晋也の「かへりみはせじ」という小銃を持った兵士が前屈みになって進もうとするほぼ等身大のブロンズ像があり、映像ホール1は「私たちは忘れない」という50分のドキュメント映画が上映されています。

展示室1「武人のこころ」では、平安時代に天皇直属の警備官が儀杖用に用いた太刀を模した「元帥刀」が中央に厳かに鎮座しています。「元帥刀」とは、軍人最高の栄誉称号である元帥に天皇から与えられたもので、出征する将軍に天皇が全権を委任した証でもあります。そしてその背後に、賀茂百樹の和歌《いくさ人ささぐる剣の光よりひかりこそいづれ国の光は》が明るく照らされています。また、その「元帥刀」を囲むように、大和心の美しさや、命果てるとも国や天皇を守ることの尊さや潔さを賛美する六つの歌が掲げられています。孝明天皇御製の《矛(ほこ)とりて守れ宮人九重のみはしのさくら風そよぐなり》(幕末の危難に際して)、昭和天皇御製の《峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり》(昭和17年の新年歌会始め)、大伴家持の《海ゆかばみづくかばね山ゆかば草むすかばね 大君の辺にこそ死なめかへりみはせじ》、三井甲之の《ますらをの悲しきいのちつみかさね つみかさねまもる大和島根を》、宗良親王の《君がため世のため何か惜しからむ すててかひある命なりせば》、本居宣長の《敷島の大和心をひと問わば朝日に匂う山桜花》です。昭和天皇御製の下には〈国難に身を投じた幕末勤王の志士がまた大陸の南冥に北の海に赴いた将兵たちが国の前途を覆う黒雲をはらわんと嘆き歌いつつ剣をとった。いつの世にももののふの歌には日本人の高雅の精神があらわれている。〉とう説明があります。また孝明天皇御製の下には〈かつて我国の武人は国難の時に天皇から節刀を賜った。近代の戦場にあっても軍人は腰に刀を佩(お)びた。刀は神代の昔から日本人の心を映し、武人の魂を宿す正義と平和の象徴であった。〉と説明があります。また、大伴家持の《海ゆかば・・》は「海を行きたとえ水中の屍になろうとも、山を行き草の中に屍となろうとも決して天皇の下を離れることはない、天皇を守るためには我が命も顧みるこはない」という天皇に対する心情を読んだものですが、昭和12年に後に文化功労者となった作曲家信時潔が作曲し、戦争中に国民の愛唱歌として広く親しまれたものです。

次の展示室2「日本の武の歴史」は、大和の地をすべて平定し初代天皇に即位した伊波礼昆古命(いわれびこのみこと)こと元祖現人神の神武天皇以下、日本武尊、神功皇后、坂上田村麻呂、源義家、源頼朝、北条時宗、新田義貞、楠木正成、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、徳川光圀、大石義雄という、記紀や中世から近世にかけて登場する英雄たちの武勲が紹介され、併せて、桂甲、短甲とよばれる古墳時代の甲冑。鎌倉時代、戦国時代の甲冑、刀、弓、鉄砲。徳川斉昭の陣羽織など、武具の歴史を展示しています。ここで、神武天皇は次ぎのように紹介されています。〈第一代の天皇(古事記、日本書紀より)・長途の東征と苦難とを克服されて神武天皇は、国のすみずみまで同じ屋根の下で、人々が安らかに暮らせるようにと願い、大和の橿原に統一国家の基礎を据えられた。皇統は連綿と継承され、今上天皇は第百二十五である。・建国記念日は、神武天皇即位の日にあたる・〉。因みに、後醍醐天皇を吉野に追いやった足利尊氏の姿はありません。

ここからは、展示室3「明治維新尊皇の志士たちと戊辰戦争」から展示室15「大東亜戦争5」まで、日清戦争、日露戦争、満州事変、支邦事変(日中戦争)、大東亜戦争(太平洋戦争)という日本の近代戦争史を基軸に、その背景、経緯の解説と史料の展示が続きます。

展示室3「明治維新」は、19世紀のアジアは欧米列強によって浸食されたという視点を中心に、欧米によるアジア侵略の歴史と、ペリー来航と日米和親条約による攘夷への高まりから安政の大獄、公武合体、尊皇討幕運動、大政奉還にいたる明治維新全体を細かく解説しています。また、坂本龍馬、吉田松陰、西郷隆盛ら尊皇攘夷の志士たちの肖像などが展示してあります。

展示室4「西南戦争」は、明治政府の基本方針を示した五箇条の御誓文から西郷隆盛の征韓論、西南戦争の詳細など近代日本黎明期の様子が解説してあります。展示室5「靖国神社の創祀」は、靖国神社創建の歴史が紹介され、次の「特別展示室」は、《靖国神社が明治天皇の思し召しによって創建され、以来皇室から厚い御御処遇と御崇敬を受けて今日に至っている》として、橋本明治の「明治天皇第一図行幸図」、大山忠作の「大正天皇行幸図」、岐阜出身の洋画家北蓮蔵の「昭和天皇御親拝ノ図」、有栖川宮熾仁親王、小松宮彰仁親王ら宮家親王の写真、昭和天皇の軍服、大正天皇皇太子時代の木刀、軍旗、勲章など、主に靖国神社創建以降の天皇家ゆかりの品とそのかかわりについて紹介しています。銅色の神武天皇御像と勲功一級金鵄を始めとした勲章が並ぶその左右には、教育勅語、軍人勅諭が掲げられ、教育勅語には、《忠と孝とは「国体の精華にして教育の淵源」であると宣明され、「父母の考」に始まる徳目には、古代の道徳と開かれた近代日本の精神性がこめられ教育の基本として明治天皇は国民に諭された》、軍人勅諭には、《我が国の軍隊は、建国の理想に基づいて天皇が統率される意義を明らかにし、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五つの徳目は軍人の精神規範であり、行きやすい人の道でもあると明治天皇は軍人に諭された》と書かれています。

展示室6「日清戦争」は、戦利品の清国要塞抱がドーンと置いてあり、久保田米僊の日清戦争絵巻、任務必衰の精神として修身の教科書に載ったラッパ手木口小平の写真、海軍に奉納された女性の頭髪をによる30メートルに及ぶ毛綱、戊辰戦争以来の歴戦の士大寺少将の軍服などが展示され、日清戦争、北清事変にいたる日本の対外的な立場を、江華島事件から、壬午事変、漢城条約、天津条約、防穀令事件、金玉均の暗殺、東学党の乱、日清戦争、北清事変などに焦点をあてパネルで解説をしています。ここでの解説を要約しておきます。

開国した日本にとって国防の最大懸念は朝鮮半島情勢であった。当時朝鮮は、国内紛争が絶えず対外的には清国に隷従していた。日本の近代化は朝鮮の近代化を目指す改革派に影響を与え、実権を握った明成皇后閔妃ら改革派は、日本と江華島条約を結ぶなど積極的な開化政策を行った。しかし、旧体制派反乱軍による閔妃派高官、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害、日本公使館焼き討ちなどの壬午事変、それに続く甲申政変により清国の武力介入を招き、親清派の守旧派が実権を握る。その後、天津条約により日清両国の漢城(ソウル)からの即時撤退、将来朝鮮に出兵する場合の相互通知等が取り決められるが、東学党の乱を契機として清国軍が条約を守らず朝鮮に出兵する。そして、ついに日清戦争が勃発する。日清講和条約によって日本の長年悲願であった朝鮮の独立は確実のものとなるが、三国干渉によって遼東半島の清国返還を要求される。国力に劣る日本は要求を受諾する以外に道はなく、三国干渉への屈服は「臥薪嘗胆」の思いとなって国民にひろがり、ロシアの旅順、大連の租借と朝鮮半島への南下はあらためて国民に日露戦争への決意を覚悟させた。日清戦争後、弱体を露呈した清国に対し、露、独、仏、英の西欧列強は露骨な利権要求をし清国内での勢力を拡大させる。それに憤激した人々は義和団による排外運動によって決起、清国政府もこれに同調して欧米列強に宣戦布告、北京の外交公館を包囲攻撃する。日本は欧米列強連合軍の主力になってこれを鎮圧した。その際の欧米列強の傍若無人な振る舞いとは対照的な秩序ある行動は、北京市民に深く信頼され称賛された。

次の展示室7「日露戦争パノラマ館」からは、大砲の轟きとともに軍艦マーチが響いてきます。入り口には、パリの凱旋門の形をした白いショーケースが置かれ、その左右に海軍中将と陸軍中将の正装が飾られています。この凱旋門形のショーケースは、日露戦争後東京各地に仮説の凱旋門が作られ、そのうちの上野に仮説されたものを模して作られているそうです。その凱旋門を通って中にはいると日露戦争の戦闘映像が映し出され、その映像の前には、満州軍総司令官元帥陸軍大将侯爵大山巌以下、満州軍総参謀長陸軍大将男爵児玉源太郎、第一軍司令官陸軍大将男爵黒木為禎と名前と肩書きと顔写真を配した明治陸海軍幹部16人(他に奥保鞏、秋山好古、乃木希典、一戸兵衛、野津道貴、川村景明、橘周太、東郷平八郎、島村速雄、秋山真之、上村彦之丞、片岡七郎、広瀬武夫)の碑がずらずらと並んでいます。そして、《日本は立ち上がった・・、朝鮮半島の安定のために・・、朝鮮が占領されれば日本が危ない・・、植民地の人に大きな夢と希望をもたらしたのである。》などという勇ましいナレーションの声を背に、次の展示室8「日露戦争から満州事変」へ続きます。

ここでは、破壊筒を抱いて敵鉄条網に突撃自爆した「肉弾三勇士」の写真と突撃のレリーフ、沖の島近海で砲撃を受けて沈没した徴用船常陸丸の油彩画、戦艦三笠の甲板破片、乃木希典、東郷平八郎の像、銃や軍服などが展示され、宣戦布告から旅順港閉鎖作戦、沙河の会戦、奉天の会戦、日本海海戦まで日露戦争全般の戦史と、ポーツマス条約から韓国併合、第一次世界大戦と日本の参戦、尼港事件、山東出兵と斉南事変、満州事変から国際連盟脱退までを詳しく解説しています。また、高句麗の時代から満州国建国までとして、満州の歴史を紹介し、そこには新国家建設、新国家を支える人々と題し、にぎわう市街、拓けゆく新天地、理想に燃えた都市計画、大規模な営農、製鉄、ダムの建設などの文字が躍っています。ここでの解説を要約しておきます。

日露戦争につては、《世界が讃えた日本の戦勝》と題し、日露戦争当時のロシアは世界第一陸軍国で、国力が日本の8倍、陸軍兵力7倍で圧倒的優位であったにもかかわらず、アジアの小国日本は連戦戦勝で、その勇戦敢闘の戦いぶりは従軍記者によって世界中に報道され称賛された。また、日本の日露戦争での勝利は、特にアジアの青少年に与えた影響は20世紀の世界を変える原動力になったとし、次のように世界情勢を概観しています。《日露戦争の勝利は、西欧列強の重圧下にあったアジアの諸民族に独立の希望を与え、漢民族は辛亥革命で清帝国を倒し中華民国を建国した。一方ヨーロッパでは、統一によって欧州第一の強国になったドイツ帝国が、墺(オーストリア)・伊との三国同盟を結んで、バルカンから中東への領土拡張を図り、バルカンではロシアと、中東では英国と競合していた。特にスラブ人が多いバルカンの支配をめぐるオーストリアとロシアの対立は深刻であった。第一次世界大戦の勃発とロシア革命は、アジアに波及し日本も参戦した。そして、敗れたドイツへの過酷な報復は、第二次世界大戦の主因となった。》 次に日露戦争後満州事変、国際連盟脱退までは、その後の韓国併合は長年の安全保障の懸案は解決したが、第一次世界大戦が勃発し、英国と同盟関係にあった日本はドイツに宣戦し、青島及び南洋諸島を攻略した。第一次世界大戦後、日本封じ込めを主たる狙いとしたワシントン会議が開かれ、日英同盟、石井・ランシング協定(中国での日本の特殊権益に関するアメリカとの協定)などの従来の取り決めは破棄され、アジアにおける米国主導が強まる。一方中国は、各地に軍閥が割拠し内戦が激化し分裂していた。また、辛亥革命以来の民族意識と排外感情は、既存条約の廃棄へと向けさせ、それによる満州における排日運動と在留邦人の危機感は関東軍主導による満州事変の契機となり満州国の建設となる。満州事変の概容を説明したパネルには次のように書かれています。《昭和六年九月十八日、奉天郊外柳条溝付近の鉄道爆破事件をきっかけに、関東軍の一部によって引き起こされた事変で、昭和八年五月三十一日の溏沽(タンクー)停戦協定によって事実上終結した。我が国は、日露の戦勝で満州に権益を有していたが、中国のナショナリズムは現行条約にかかわらず外国権益の国益を求め在留邦人の生命財産を脅かした。このため関東軍の武力を行使し、その結果、満州国が樹立された。関東軍の行動は国民に支持されたが、列国はこれに強く反発し、日本は国際連盟から脱退した。》また、次のように、日露戦争から国際連盟脱退までの解説を結びます。《満州の地方指導者は関東軍の支援の下に清朝の廃帝溥儀を迎え、昭和7年3月1日に満州独立を宣言した。我が国は9月15日満州国を承認した。国際連盟は、中国の主権を残しつつ満州を自治区域とするリットン報告書を採択し、我が国はこれに抗議して連盟を脱退した。》

展示室9「招魂齊庭」では、新しく合祀される戦死者の招魂式の様子がディオラマで再現され、招魂式次第の説明と、招魂式に使われる御羽車と戦歿者合祀名簿(この戦歿者合祀名簿は、合祀に当たって天皇の手許に天覧に供され、今にいたるまで必ず天皇陛下の叡慮を受けているということです。)などが展示されています。招魂式とは、戦死者の氏名を記した霊璽簿を御羽車に納め本殿に奉遷する祭儀で、これによって戦死者は靖国神社に合祀されます。招魂式は先ず、靖国神社境内にある招魂齊庭に設けられた幄舎に霊璽簿を納めた御羽車据えて御霊を招く招魂の式を行い、続いて御羽車を神職が担ぎ、参列の遺族が座して見守るなか本殿へと奉遷されます。その様子は昭和8年から終戦までNHKのラジオで実況中継され、明かりを落とした展示室にはその当時の実況放送が流されています。

展示室10「支那事変」は、入るとすぐ、《やすらかに ねむれとぞおもふ 君のため いのちささげし ますらをのとも》という香淳皇后(昭和の皇后)の詠歌がディスプレイに映しだされています。展示室の陳列窓には、全身全霊のオリンピックランナーとして国民に知られた鈴木聞多陸軍歩兵少尉の遺品と写真。軍人としての武勲も華々しく、郎らかで人情味溢れる性格で部下から慕われ、「天皇陛下万歳」を三唱して戦死した「昭和の軍神」西住小次郎陸軍大尉の日誌。敬神崇祖の念篤く、大楠公の「七生報国」の精神を自らの信念とし、幼少期の憧れ陸軍師範学校へ進み、圧倒的な敵陣の前に、勅諭奉読、万歳三唱の後、塹壕より軍刀をかざして敵中深く切り込み戦死し、「武人の範」と讃えられた東宗治陸軍歩兵大佐の軍服と書簡。「身を楯にして負傷者を守れ、担架隊の任務は尊い人間の命を救うことだ。衛生兵が死んだら兵隊はどうなる。人間は肉体ではない、銃より硬い魂だ」と口癖のように部下を激励し、敵陣に切り込み戦死した担架隊の小隊長山本健一中尉の防弾チョッキなどが展示されています。そして、蘆溝橋事件から始まる支那事変全般の戦史と解説、張鼓峰事件、ノモンハン事件などの満ソ国境紛争についての解説がなされています。先ず、支那事変については次のよう概説されています。《昭和八(1933)年の塘沽協定で安定を見た日中関係は現地日本軍の北支工作とコミンテルン指導下の中国共産党による抗日テロの激化により、再び悪化した。蘆溝橋の日本軍に対する中国側の銃撃という小さな事件が北支那全域を戦場とする北支事変となった。背景には、このような中国側の反日機運があった。また中国側の挑発による第二次上海事変以降、蒋介石は、広大な国土全域を戦場として、日本軍を疲弊させる戦略を択び、大東亜戦争終戦までの八年間を戦い、戦勝国側の一員となった。》また、「支那事変全般作戦図」と題し次のように書かれています。《昭和十二年、七月七日夜の蘆溝橋事が北支全域の戦いになり、八月に第二次上海事変が勃発すると、蒋介石は総動員を下令して国共合作に踏み切り、日本政府も従来の不拡大方針を放棄した。ここに日中両国の実質的な全面戦争が始まった。蒋介石は重慶に移って徹底抗戦を決意し、日本軍は首都南京、さらに徐州、武漢や南支一帯を攻略した。しかし、双方ともに宣戦布告はせず、日本は「支那事変」と称した。》

次の展示室11「大東亜戦争1」からは1階に場所を移します。ここでは、太平洋戦争開戦前の世界情勢と日本の経済情勢、開戦に至るまでの日米交渉と日本の置かれた立場を詳しく解説しています。ここでの解説を要約しておきます。

ヨーロッパでは、国民の圧倒的支持を得てヒトラーが台頭し、ソビエトではレーニンの後継者スターリンが粛正に次ぐ粛正で権力を掌握し、軍事力による領土拡大と世界赤化政策を強力に推し進めようとしていた。一方、開戦前の日本は、対米国経済依存度が極めて高く、特に石油(9割輸入の内7割)、屑鉄などの大部分は米国依存していた。また日本の資源保有量は、石油24ヶ月、銅11ヶ月、ニッケル10ヶ月、生ゴム3ヶ月などであった。日米開戦を前提とした日本にとって、米国からの輸入が途絶えたときの新たな資源獲得は国家の存亡にかかわる重大な内題であった。また一方で、対米関係は、米国が蒋介石政府に大量の援助を供与し悪化していた。近衛内閣は、日独伊三国同盟により米国と交渉する立場を強め戦争を回避するという松岡洋右外相の対米政策を採用し日米交渉に開戦回避の道を探る。交渉は昭和十六年四月十六日に、野村大使が「日米諒解案」をハル国務長官に交渉の原案として提示するところから正式に始まるが、交渉は難航する。同年七月二十四日、野村・ルーズベルト会談において、ルーズベルト大統領は石勇禁輸を示唆し仏印中立化を提案。(日本は、昭和十五年九月から北部仏印(フランス領インドシナ)に進駐していた。)同年七月二十五日、米国が在米日本資産を凍結、次いで英国、蘭印(オランダ領インド)が日本資産凍結と通商条約等の破棄を通告。同年七月二十八日、日本軍はフランス政府の同意を得て南部仏印進駐にする。同年八月一日、米国は対日石油全面禁輸を実施。米国による対日石油全面禁輸は、国家の存亡を脅かすもので、日本に重大な決断を迫ることになる。日米交渉は、同年十一月二十六日の日本側最終譲歩案乙案に対する拒否と、米国側のハル・ノート提示によって、日本は開戦やむなしの結論に至る。

次の展示室12「大東亜戦争2」から展示室14「大東亜戦争4」では、昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃から沖縄戦までを、「侵攻作戦」、「攻防の転換点」、「守勢作戦」、「本土防衛作戦」にわけて戦史の説明が続き、ここでも、真珠湾攻撃の際に被弾し、不時着することなく飛行場に激突して戦死した飯田房太海軍大尉の軍服と遺影。真珠湾のアメリカ太平洋艦隊への特殊潜航艇での決死の魚雷攻撃作戦に志願し戦死した「真珠湾の九軍神」の遺影と特殊潜航艇呑の模型。アッツ島守備隊司令官として部隊とともに玉砕し戦死した山崎保代陸軍中将の遺書など、武勇の軍人の悲話や、関連の遺品などが多く展示解説されています。

展示室15「大東亜戦争5」の「終戦」では、《東郷外相は昭和十七年の年頭訓辞で何をおいても終戦工作の研究を命じ、外務省は和平の道を探るが、米国には交渉による和平の意志はなく、日本はポツダム宣言で示された条件を受諾し、講和までの約七年間、占領軍の支配下で再建への道を模索する以外に道はなかった。》とあり、《身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもて》という昭和天皇御製が掲げられています。また、最後のガラスケースには「パール判事 講演録」のパネルが挙げられ、そこには次のように書かれています。

《私は一九二八年から四五年までの十八年間の歴史を二年八ヶ月かかつて調べた。とても普通では求められないような各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴つた。この私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるとことがわかるはずだ。しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。そして自分らの子弟に『日本は犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙をあえてしたのだ』と教えている。満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して充分に研究していただきたい。日本の子弟がゆがめられた罪悪観を背負つて、卑屈、頽廃に流れてゆくのを私は見過ごして平然たるわけにはゆかない。誤られた彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。誤られた歴史は書きかえられねばならぬ。(昭和二十七年十一月六日広島高等裁判所においての講演録から抜粋)

また、第二次世界大戦後の各国独立と題し、《日露戦争の勝利は、世界特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。アジア民族の独立が現実になったのは、大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が敗れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した。》として、チャンドラ・ボース、ガンジー、ホーチミン、スイルノらアジアの独立の指導者たちを紹介しています。

ここまでで、「武人のこころ」、「日本の武の歴史」をプロローグとし、靖国神社の祭儀とその創建の歴史と経緯、明治維新から大東亜戦争、終戦にいたる軍事史とその背景の展示解説が終わります。そして、次の展示室16から展示室18まで、「靖国の神々」と題し、大東亜戦争で亡くなった軍人軍属の6362人の遺影と、自らの悲しい運命を覚悟し、残された家族への惜別の情を綴りながらも、国や天皇に命を捧げ、靖国に祀られる誇りを書き記した多くの遺書、手紙などが展示してあります。そして、最後の「大展示室」には、零戦や特殊潜航艇、高射砲などの武器、兵器が展示してあります。

最後に、「靖国の神々」に展示してある多くの遺書の内の一つ、三島由紀夫が「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない」と激賞した古谷眞二海軍少佐の遺書を記して、靖国神社「遊就館」ルポルタージュは一応ひと区切りを付けたいと思います。

《皇国の一男子として生を享けて以来二十有余年、國を挙げての聖戦に勇躍征く事を得ば男子の本懐、正に之に過ぐるものなし ものごころついて以来自分乍ら世才に長せりと感じ 幼友矢島君の男々しき武人姿をみるにつけ所詮身は軍人になれぬとは思ひ諦め居たるも 長じて茲に征途につくを得ば身を鴻毛の軽きにおき勇みて征かんの心激しからざるはなし 過去二十何年の間 陰に陽に愛しまれたる御両親の恩 甚だ深くして 浅学非才なる小生にしては御礼の言葉を見当たらず その深遠厚大なるに対し深く深く厚く厚く御礼申し上ぐるものなり 御両親はもとより小生が大なる武勇を為すより 身体を毀傷せずして無事帰還の誉を擔はんこと朝な夕な神仏に懇願すべくは之親子の情にして当然也、不肖自分としても亦、身を安じ健康に留意し、目出度く帰還の後 孝養を盡くしたきは念願なれども 蓋し時局は総てを超越せる如く重大にして徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状に至り。大君に対し奉り忠義の誠を至さんことこそ、正にそれ孝なりと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂いなく千戈を執らんの覺悟なり 幸い弟妹多く兄としてのつとめは果せざるを遺憾とは思ひつつも願わくは之等妹に父母の孝養を依頼したき心切なり 死すること強ち忠義とは考えざるも自分は死を賭して征く、必ず死ぬの覚悟で征く 萬事頼む 十八年六月十日 眞二》

(遊就館ルポルタージュ・了)



「靖国」を巡る問題


「靖国」を巡る問題、それは、具体的には中曽根康弘が首相在任中の1985年8月15日に公式参拝をしたことによる、主に中国、韓国、朝鮮からの大きな反発によって、それ以降、首相の参拝や、A級戦犯合祀などについて様々な発言がなされてきました。そこには、大別すれば、靖国神社は、日本のために戦って死んだ人を祀る場であるから、日本人として、そこに行き慰霊することは当然ではないか。ましてや首相が率先して、国民の代表として参拝することは当然ではないか。このような意見と、これに対立し、首相が参拝することは、政教分離の原則を謳った憲法第20条に違反するではないか。戦前の軍国主義の精神的支柱の役割を果たした靖国神社に参拝することは、日本の戦争責任を曖昧にし、戦前の国家体制を肯定することに繋がっていくのではないか。このような二つ立場があって、両者の議論は相容れず、ある種憎悪にも似た感情を持って、それぞれがその正当性を主張しています。わたしは、靖国神社を巡る対立と論争の俎上で、自らの意見を主張しょうとは思いませんが、靖国神社を大切にし、こころの拠り所にしている人たち(以降、靖国の人たちと総称します。)と、そうではなく、靖国神社を否定する人たち(以降、靖国を否定する人たちと総称します。)の間で起こる齟齬について、それが何によって引き起こされるのか。何が問題の本質なのか。靖国の人たちの考えを交えながら、わたしなりの靖国考を纏めて行きたいと思います。

先ず、靖國神社ホームページには次ぎように書かれています。


靖國神社の由緒


靖国神社は、明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社が始まりで、明治12年(1879)に「靖国神社」と改称されて今日に至っています。
靖国神社は、明治7年(1874)1月27日、明治天皇が初めて招魂社に参拝された折にお詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創立された神社です。「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
靖国神社には現在、幕末の嘉永6年(1853)以降、明治維新、戊辰の役(戦争)、西南の役(戦争)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの国難に際して、ひたすら「国安かれ」の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々の御霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉しくお祀りされています。

以上、わたしなりに要約し補足すると、

靖国神社は、天皇を国家元首とする大日本帝国憲法(明治憲法)によって日本を統治する国家が、その国家保持のための戦争によって死亡した軍人軍属を祀るために、明治2年に「東京招魂社」として創建し、明治12年、「東京招魂社」を「靖国神社」と改称し、別格官幣社として神社としての社格を整えて以降、(明治15年、遊就館開館)陸軍省と海軍省の共同管轄となり、昭和21年の宗教法人令改正によって一般宗教法人なるまで、国家護持としての役割を担ってきた。依って、靖国神社は、彰義隊や白虎隊の死者、西南戦争で自刃した西郷隆盛、佐賀の乱で処刑された江藤新平など、明治新政府に抵抗した側の死者は祀られていない。また、後醍醐天皇に背いた足利尊氏は祀られていない。また、原爆や空襲で死亡した一般市民、沖縄で戦闘に巻き込まれ死亡または自害した一般市民は祀られていない。(但し、昭和40年(1965)、靖国神社の片隅に鎮霊社とよばれる小さな祠堂がに建立され、そこに、明治新政府に抵抗した側の死者、彰義隊や白虎隊や西郷隆盛も、空襲で亡くなった一般の市民も、さらに世界中の戦没者が祀られた。しかし、それらの死者は、靖国神社に合祀されてはいない。(参照・前述の遊就館展示室9「招魂齊庭」)

さらに靖国神社ホームページには次ぎように書かれています。

靖國神社の起源

靖国神社の起源は明治2年(1869)6月29日に建てられた東京招魂社に遡りますが、当時の日本は、近代的統一国家として大きく生まれ変わろうとする歴史的大変革(明治維新)の過程にありました。それ以前、日本は徳川幕府の政権下にあり、約250年にわたって鎖国政策をとり海外との交流を厳しく制限していました。ところが、アメリカや西欧諸国のアジア進出に伴って日本に対する開国要求が強まると、開国派と鎖国派の対立が激化し、日本の国内は大きな混乱に陥ります。そうした危機的状況を乗り切る力を失った徳川幕府は、ついに政権を天皇に返上し、日本は新たに天皇を中心とする近代的な国づくりに向けて歩み出すこととなったのです。しかし、そうした大変革は、一方において国内に避けることのできない不幸な戦い(戊辰戦争)を生み、近代国家建設のために尽力した多くの同士の尊い命が失われる結果となりました。そこで明治天皇は明治2年6月、国家のために一命を捧げられたこれらの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるために、東京九段のこの地に「招魂社」を創建したのです。この招魂社が今日の靖国神社の前身で、明治12年(1879)6月4日には社号が「靖国神社」と改められ別格官幣社に列せられました。

この、「靖國神社の起源」と「靖國神社の由緒」に書かれていることを読むと、靖国の人たちの歴史認識、国家観を感じることができると思います。また、それが、遊就館の展示や解説によく表れています。そして、それは、日本の国家は、徳川政権から明治政府に変わろうとも、《万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。》という「国体の本義」に基づき建国以来一貫しているという皇国史観に立脚していることは今さら言うまでもありません。靖国問題として、その両者の齟齬の分岐点にあり、この問題を複雑にするのは、この「皇国史観」が、靖国の人たちたちの歴史観のなかで、大なり小なり受け入れられることであり、この「皇国史観」に依拠してイメージを膨らませると、当然ながら、そうではない人たちとの歴史観、歴史認識とは違ったものになってきます。

《アメリカや西欧諸国のアジア進出に伴って日本に対する開国要求が強まると、開国派と鎖国派の対立が激化し、日本の国内は大きな混乱に陥ります。そうした危機的状況を乗り切る力を失った徳川幕府は、ついに政権を天皇に返上し、日本は新たに天皇を中心とする近代的な国づくりに向けて歩み出すこととなった》(靖國神社の起源より)

アメリカや西欧諸国のアジア進出という外圧によって、その危機的状況を乗り切るために、徳川幕府は、ついに政権を天皇に返上し、日本は新たに天皇を中心とする近代的な国づくりに向けて歩み出した。つまり、日本という国は、アメリカや西欧諸国とは違った文化、価値観を持って歩んできた。しかし、彼らはそれを許さず、彼らと同じ価値観、彼らと同じ歴史観を受け入れるよう強要してきた。靖国の人たちを代表する論者の一人、小堀桂一郎さんは、靖国神社が発行している『遊就館図録』の巻末に「解題」と題し、次のように書いています。

《近代とは抑(そもそ)も何であるか。それは元来が西洋史の時代区分の中で考えられた概念なのです。近代は古代や中世に比べて明らかに立ち勝った一つの価値であると判定されてをり、且つそれが、現に我々が享受してをります近代文明の諸々の成果を考へてみれば、地球的規模で通用する普遍的価値であることには疑ひがありません。しかし今ここで〈西洋史の時代区分で考えてみれば〉としたところからも浮き出て参ります様に、近代とは元来が西洋的価値観の産物なのでありまして、我が日本民族が神武肇国の昔以来参じて来ました自足安定型の文化的価値尺度と(上記の如く普遍的共通部分はもちろん存するものの)全面的に一致するものではなかったのです。
 日本民族は戦国時代の末期(キリスト教紀元での十六世紀半ば)にいはゆる南蛮文化の渡来に接して初めてその西洋的価値観との交渉を持ったのですが、明敏な我が祖先の戦国武士たちは、その接触現場での経験を通じて敏感に彼我の文化的価値の相容れ難い相違を感じ取り、以来この異文明との交渉に非常な慎重を期する態度を守り続けました、彼我の文化的交流は、徳川幕府の政策として、意識された抑制と制限の枠内で行われてゐたのです。
 しかしながら爾来約三百年を経過した徳川時代の末期(キリスト教紀元での十九世紀半ば)に至りますと、西洋近代といふ名の文明に本来的に内在する自己拡張欲の必然の結果として、彼らの支配下にある国際社会は、日本民族が三百年来とつてきた制限的な対外交流姿勢をもはや認めようとしなくなったのです。日本は「近代」といふ西洋的価値観を彼等と共に奉じ且つその文明史観を共有することを強要されました。それに承服しなけば、彼等の文明に自らの存在が併合されてしまう危険が判然と眼に映りました。近隣のアジア諸民族が西洋文明の拡張的攻撃的圧力に屈して自らの文化を喪失してゆく危険、乃至は既に喪失してしまった悲運の姿を、幕末の先覚者達は大いなる警告として身近に目撃してゐました。このまま従来の行き方を続けて行けば、あのアジア諸民族の文化喪失の惨状は明日の我々の運命となってしまふ・・・と、先覚的知識人達は豁然と眼を開き、そして自衛行動を開始したのです。》

また、小堀桂一郎さんは、『国民精神の支柱としての靖國の記憶』と題する講演のなかで、国民主権、平和主義、基本的人権の憲法三原則に触れて次のように語っています。

《まず第一に国民主権主義でありますが、これは日本の歴史から導き出すことのできない思想なのです。日本という国は神武天皇の建国以来天皇の統治したまう国であります。大日本帝国憲法では、それはまず第一条に明言し、第四条で少し敷衍して、いわゆる立憲君主制の原理に結び付け天皇は統治権を総攬なさる存在だというふうに定義いたしました。その統治の権限の源、法律学の方では法源という言い方をいたしますが、それは皇祖天照皇大神の神勅にある。決して国民の信託によるものではないのです。現行憲法の前文を見ますと、「ここに主権が国民に存することを宣言し」とありますが、こんな不思議な判断は、日本国民が二千年の有史以来、この占領方針の言明を通じて初めて聞く面妖な表現なのです。》

以上、『靖國神社の起源』、小堀桂一郎さんの『解題』、『国民精神の支柱としての靖國の記憶』から、あるいは「パール判事講演録」を日本近代史の総括として示す遊就館の在り方からも、共通する、近世から近代へ至る歴史観と、そこに、明治維新から終戦に至る日本の国家の在り方を肯定する近代史観のバックボーンを読み取ることができると思います。



わたしは、

二世紀半にも及ぶ日本の歴史上最後の武家による独裁体制の崩壊を、その経緯と背景を素通りして、アメリカや西欧諸国のアジア進出という外圧に短絡させ、《地球的規模で通用する普遍的価値》であるはずの日本の近代を、二世紀半にも及ぶ幕藩体制下の社会が、単純に泰平の良き時代であったかのように語り、《日本が好むと好まざるとに拘わらず自らをも近代化することなしには西洋近代が力を以て我に迫ってくる分割・併合の脅威に耐へることはできなかった》がために、無理矢理押しつけられたものであり、《日本は幕末開国以来の近代化=西洋化の究極の帰結として、その近代化運動の我国にとっての模範であった米英両国との力の対決を迫られ》《その様な宿命と闘ってきたのが日本の近代の歴史だった》とする、小堀桂一郎さんの歴史観には多いに疑問を感じますが、歴史は単純ではなく、多面的であり、小堀桂一郎さんのような歴史観があってもよいし、また、このような歴史観も、歴史の一面として真実であるでしょう。しかし、日本の歴史を大きく顧みるとき、わたしたちから見た今の国家があることと同様に、その時代に生きた人たちにとっての国家があります。現在の歴史学は、支配者の視線からの歴史ではなく、古文書や日記等の同時代史料を分析し読み解くことによって、あるいは、民族譚などの民族資料を収集し、未開の心性をたぐり寄せる民俗学の手法によって、そこに生きた多くの〈支配された人たちの側〉から歴史の再構成をすることであり、決して《神武天皇の建国以来天皇の統治したまう国》を前提として日本の歴史を読み解くことではありません。わたしは、いまここで、江戸時代の実像について、具体的事例を取り上げて、小堀桂一郎さんに反論しようとは思いませんが、あくまでも日本の国家としての歴史は、その時代に生きた人たちにとっての国家として、日本人の営みの内に支配の成り立ちとその変遷として相対化されなければならないはずです。そして、日本の支配構造の中心にあった天皇という存在についても同じように、神格化された日本の統治の権限の源として絶対化するのではなく、村落共同体から古代国家が形成され、ヤマト王権の成立から、天皇を中心とした律令体制へ、次に、武家を中心とした封建体制へ移り、武家体制の崩壊から近代国家へと至る、大凡3世紀半ば頃からの日本の歴史全体のなかで、天皇という存在がいかに、人々の上に聳える、届かざる存在、触られざるべき存在、祀られた存在として神格化されていったかということを、その時代に生きた人たちにとっての天皇として、日本人の営みの内に相対化されなければならない。それは、同時に、今のわたしたちにとっての〈天皇〉、あるいは〈天皇制〉について考えることでもある、というように思います。

美術館マンスリーfile4「曾我蕭白―無頼という愉悦」に、「蕭白の生きた時代」として、徳川という時代の一面について、わたしなりの一つの見方を記していますので、よろしければご参照ください。)


わたしの、靖国を巡る旅も、ずいぶん長くなって、そろそろわたしなりの結論に向かいたいのですが、水の中で魚を掴むかのように、掴んでいてもすぐにつるっと抜けてしまう。自分の頭の中では、問題の核心部分が目の前に見えてきて、今すぐにでも明々白々に言葉にすることができるように思うのですが、実はそうはいかない。そんな状態がわたしのなかではずっと続いている感じです。靖国への様々な思いは、それぞれの思いや感情を抱えて、そこに論理や思想も絡まっていますので、すべてをひっくるめて、誰もが黙り込むような明白な答えを見いだすことは至難なことです。ここで最後にもう一人の靖国の人たちを代表する重要な論者、江藤淳さんの言葉を書き記しておきます。江藤淳さんは、小堀桂一郎さんと共編で、〈日本の鎮魂の伝統の伝統のために〉と副題の付いた『靖国論集』を出しており、その中で、『生者の視線と死者の視線』と題し、小堀桂一郎さんとは少し違う角度で靖国への思いを語っています。江藤淳さんは、公式参拝問題に触れて、一方には国家の持続という命題があり、他方に憲法典の変化という事実があって、その相互の間に生ずる矛盾をどう処理するかが、公式参拝問題の本質であり、国家の持続という点を主眼として見るか、憲法典の変化ということのみを見るかが、根本問題であるとした上で、次のように語っていきます。

《なぜならば、これは渡部昇一さんをはじめ多くの論者が指摘しているように、Constitutionという言語が、成文憲法の意味で使われるようになったのは比較的新しい用例ですね。合衆国が成文憲法の作成に着手し、フランス共和国が成文憲法を採用した18世紀末から始まった。「OED」(※オックスフォード英語辞典)の用例によると、Constitutionの原義は、make-up of the nation' つまり成文・非成文のいかんにかかわらず、文化・伝統・習俗の一切を包含した国の実際の在り方ですね。渡部昇一さんのように「国体」と言うと「国体の精華」というように戦前の日本の国家体制に限定されすぎる恐れもありますから、敢えて英語で「make-up of the(a) nation」といって置きます。つまり憲法典というものは、単に国のmake-upの上にのっかているのにすぎず、したがってConstitutionの部分であって決して全体ではないのです。明治憲法典は、プロシャ流立憲君主体制の鋳型に入れて日本のmake-up of the nationを法制化しようとしたものにすぎないし、現行憲法典は、アメリカを主体とする連合軍の日本占領という現実の上に立ち、占領政策の固定化という目途のために、二十五人の米陸海軍軍人が、僅か六日六晩で粗忽のうちに起草したものにすぎない。つまり、日本のConstitutionの上に憲法典がのっかっているのであって、憲法典が一義的にConstitutionを規定するという考え方は採用しないというのが私の基本的な考え方です。したがって、憲法典は現に存在するけれど、あってもいいしなくてもちっともかまわない。日本人にとって一番大切なもの、日本人がおのずから親身になれるものは、日本の国柄そのものですね。つまり、make-up of the nation ― make-up of Japanであって、これは要するに『記紀』『万葉』以来、今日に至る日本という国の持続そのものが織りなしてきたものです。その上に個人としての記憶も民族としての記憶も全部堆積しているのです。》

さらに江藤淳さんは《日本の国柄》について、

《国柄とは何かというと、生きている人間だけに関して言えば、wey of lifeだと言うことも出来る。アメリカにはAmerican way of life がある。これは、平和と民主主義と基本的人権という言葉で、占領当初以来日本にも翻訳されて伝えられている。この「American way of life 」をある時期のアメリカ人は普遍妥当なものだと考えた。しかし今日のアメリカ人は、本当にそうなのかどうかという疑惑を持ち始めている。その疑惑はアメリカの国柄にとって、大きな問題になりつつあると思う。では、われわれの国柄というのは何だろう。American way of lifeというものがアメリカ人の生きざまなら、日本にも当然Japanese way of lifeというものがあるはずであり、それはかならずしもAmerican way of lifeと一致する必要はない。なぜなら、日本のmake-upとアメリカのmake-upがそもそも違うものですから。Japanese way of lifeとAmerican way of lifeが違うとすれば、生きている人間のwayが違うだけでなくwey of dead' つまり死者を遇する遇し方も違うはずです。これはなおざりにできない問題だと思います。(中略)(折口信夫の『叙情詩の発生』に触れて)日本人が風景を認識する時には、単なる客観的な自然の形状として認識するのではなくて、その風景を見ている自分たち生者の視線と交差する死者の視線をも同時に認識しているのです。宗教的な心情と、風景に対する敏感な感受性とは、常に表裏一体になっているのですね。日本人は身辺嘱目の風景を眺めている時でも、同じ風景を見ているもう一つの視線、つまり死者たちの視線を同時に感得することによって、そこからある喜びと安らぎを汲み取り、死者たちに対する呼びかけの気持ちを通わせようとする。そこに日本文学の特種な性格があるのです。死者とは限らない。もっと拡大して、不在の者の霊といってもいい。たとえば同じ人麻呂の歌 ―
笹の葉はみ山もさやに騒げどもわれは妹思ふ別れ来ぬれば
野宿していると、笹藪が風を受けている、非常に不安な時に、自分の妻から託されたお守りの領巾を握りしめながら、自分の魂が憧れ出ないように鎮め、同時に傍らにはいない妻の魂を鎮める。死者の魂、それから別れて来ていまは不在の妻の魂は、眼の前にはいないというそのことにおいて同じものなんですね。その魂鎮めに意味合いが、「景が情を象徴するばかりか、情が景の核心を象徴」(『叙景詩の発生』)するという、風景認識の営みをささえている。初めの場合には志賀の辛崎とか、志賀の大曲というような場所の認識となり「笹の葉はみ山もさやに騒げども」の場合には聴覚にとらえられた風景。そういう風景の認識が、八世紀にまとめられた最初の詩歌集である『万葉集』の中に随所にちりばめられている。つまり、折口博士が言われるように、生者だけが物理的に風景を認識するのではない。その風景を同時に死者が見ている、そういう死者の魂との行き交いがあって、初めてこの日本という国土、文化、伝統が成立している。それこそ日本のConstitutionである。Japanese way of lifeは、そのままJapanese way of the deadでもあるのです。つまり死者のことを考えなくなってしまえば、日本の文化は滅びてしまう。日本文化というのは、ある意味で死者の文化と言っていい。ラフカディオ・ハーンは〈神国〉というのは〈死者の国〉という意味であると言っています。人から魂魄が離れて〈神〉になるからでしょう。したがって日本人にとっての神というものは、Godでなくてdeityであって、神はやはり人間とある意味で連続しているのですね。血縁において、記憶において連続しているけれども。他界へ行ってしまった魂であるが故に、一面において生者とは断絶している。断絶と連続とが同時に存在しているのが、日本人と死者との関係であって、だからこそ、日本の国土、日本人の嘱目する風景、日本人の日々の営みは、常に死者との共生感のうちにあるといわなければならない。死者と〈共生〉しているというのは矛盾のようだけれども、実は死者と共に生きるということがなければ、われわれは生きているという感覚を持てないのですね。その感覚が日本文化の根源にある。つまり、日本のmake-up of the nationの根源にある。非常に重要な感覚です。》

そして、江藤淳さんは、政府主催『閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会』の席上、次のような感覚にしばしば襲われたと言い、靖国神社への思いを次のように語っている。

《私は、席上しばしば総理官邸の大食堂の梁を見たものです。そのへんから英霊の眼が見詰めているという感覚にしばしば襲われた。この人々はいったい何をやっているのだ、なぜこんな枝葉末節の議論をしてゐるのだ、われわれは祀らないでいいのだろうか。日本の総理大臣が、日本の国民を代表して靖国神社の社頭に深々と額ずく。そんなこと当たり前のことじゃないか。額ずこうが額ずかまいが、自分たちは靖国の鬼として生者たちの営みを見守っているけれども、何という乾き切った心で生者たちは生きているのだろう、哀しいことではないか、というささやきが耳に聴こえるような感じがしてならなかった。(中略)

帝国臣民ニシテ戦陣ニ死し職域ニ殉シ非命に斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル処ナリ

これが靖国神社公式参拝問題の根拠です。陛下がこう仰せられたではないか、「五内為ニ裂ク」とまでおしゃったではないか。今でも戦没者の追悼式に出てこられて、「いまなお胸の痛むのを覚えます」と、陛下は毎年繰り返しておられる。そう申し上げては畏れ多いけれど、陛下はあの一言を繰り返すためにだけ、健康に留意し、ご高齢を保っておられるんじゃないか。(中略)その年々のご心境を反映したお声で「五内為ニ裂ク」を口語でおっしゃりつづけておられる。それで遺族も国民も、ああ陛下は憶えていてくださる、陛下のために死んだ自分の夫を、自分の息子を、父を、あるいは祖父を憶えてくださると思って、武道館に参集して、ありがたいことだと思って帰ってくる。そして九段坂を向こうに渡って、必ず靖国神社にお参りしてくる。》

江藤淳はこの『生者の視線と死者の視線』のなかで、《日本人にとって一番大切なもの、日本人がおのずから親身になれるもの》は、《日本の国柄そのもの》であって、その《日本の国柄》とは、文化・伝統・習俗の一切を包含した国の在り方そのものであって、日本人がいかにこの国で生き、かつ死んできたかということの積み重ね以外のものではありえない。それは、明治憲法典でもなく、いわんや現行憲法典でもありえない。つまり、広い意味でも、深い意味でも、日本の文化の問題である。従って、憲法20条の第3項、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という現行憲法典の法解釈など片々たる枝葉末節にすぎないと切り捨てます。

わたしは、小堀桂一郎さんの言っていることについては、その論理としてはよく理解できます。小堀桂一郎さんは、明治憲法第1条の〈大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス〉と同じく《日本という国は神武天皇の建国以来天皇の統治したまう国であります。》とはっきり宣言するように、明確な皇国史観に立って発言しています。そこに立脚すれば、現在の日本は今でも大日本帝国であり、同じように、その国民精神の拠り所である靖国神社は神社であって神社でない。だから政教分離などという法律論の対象にはならない別次元の存在である。ましてや、占領軍が押しつけた現行憲法など尊重する必要もない。となるわけです。それに対し、江藤淳さんは、《『記紀』『万葉』以来、今日に至る日本という国の持続そのものが織りなしてきたもの》と表現はしますが、その《織りなしてきたもの》が、天皇を中心にしたものだとは言わない。《日本の文化の問題》であると言う。しかし、一方で《死者を悼むという心情》を断ち切ってしまったら《国家は到底維持出来ない》と言う。江藤淳さんにとっての《国家》とは何なのか。

現在の日本人で、どれだけの人が靖国神社に慰霊に行っているか、どこに住んでいるかの違いはあるでしょうが、わたしの周辺の人で、それも70歳以上の戦争体験者のなかで、靖国神社に慰霊に行ったことのある人は一人もいなかった。しかし、靖国に行かなくとも《死者を悼むという心情》を断ち切ってはいない。江藤淳さんの言うように、お盆には必ず墓参りに行き先祖に手を合わせてくる人たちであり、それぞれの戦争の思いを胸に宿しているだろうと思う。江藤淳さんや、そのほかの靖国の人たちは、なぜそこまで靖国にこだわるのか。靖国神社は幸いにして、戦後潰されることなく戦後の社会に残った。そして、わたしたちはそこに行けばいつでも手を合わせることができる。江藤淳さんは、大切なものは《文化・伝統・習俗の一切を包含した国の在り方そのものであって、日本人がいかにこの国で生き、かつ死んできたかということの積み重ね以外のものではありえない。》と言い、《それは明治憲法典でもなく、いわんや現行憲法典でもありえない。つまり、広い意味でも、深い意味でも日本の文化の問題である。》と自ら言っている。つまり、日本の文化の問題であり、国家の問題ではないはずです。しかし、靖国神社は、それが好か悪かは別として、明治国家による国家神道政策によって、国家への献身と忠誠への精神的支柱として国家神社の役割を担い、神を祀る場としての靖国神社と表裏一体で機能したことは否定できない事実であり、そこにおいて、靖国神社が明治天皇の思し召しによって創建されたというのなら、天皇の果たした役割は、支配者の側で機能した天皇という側面を否定できない。そうではなく、天皇についても、靖国神社についても、江藤淳さんが言うように《日本の文化の問題》として考えるなら、先にわたしが述べたように、天皇という存在が、いかに人々の上に聳える届かざる存在、触られざるべき存在、祀られた存在として神格化されていったかということを、その時代に生きた人たちにとっての天皇として、日本人の営みの内に相対化させるしかないではないか。それは、同じように靖国神社というものも日本人の営みの内に相対化させることに他ならない。それは、別の言い方をすれば、天皇を国家から引き離すことであり、靖国神社を国家から引き離すことである。これが、わたしの靖国考の一つの結論でもあります。


わたしは、ここで、取り敢えず今回の靖国考を了とすることにします。


わたしは、江藤淳さんの国家観について、その本当のところはよくわかりませんが、たぶんご自身のアイデンティティーの問題であろうと思います。この人のなかに、国家(日本人であること)に繋がっていなければ、自己の存在を確認できない意識がどこかに働くように感じます。しかし、江藤淳さんは、近代的知識人でもあるから、明治の元勲のごとく、小堀桂一郎さんのように《日本という国は神武天皇の建国以来天皇の統治したまう国であります。》とは言えない。今、靖国神社に絡まるように吹き出している様々な思いや対立の根底に、そういう日本人としてのアイデンティティーの問題が大きく横たわっているように思います。次にそこに言及し、国家とは何かという問題に踏み込んでいくことは、実はわたしの本当の目的であり、その先に、私たちにとっての未来の国民と国家のイメージに思いを馳せていきたいし、そうでなければ靖国について考える本当の意味がないわけです。しかし、それは今後の大きな課題として、今回、靖国神社について考えを巡らしたことは、我が乏しい知見と貧しい想像力であっても、今後、《国家》というものを考えていくうえで、役だっていくことでしょう。


最後に、


わたしは、謂わば国家神社である「靖国神社」のその観念の表出とでも言うべき靖国神社「遊就館」の展示が、戦後の価値観のなかで洗い出されたものではなく、また、それが《大日本帝国》の歴史を肯定し美化するものあっても、《大日本帝国》の残骸として、「靖国神社」と一体になって、〈明治維新によって日本に誕生した近代国家のその破滅までの生々しい精神の歴史〉をわたしたちに伝える場として、この戦後の日本に存在していてもよいと思います。わたしは、「靖国」を考えるということが、先に長々と記した靖国神社「遊就館」の展示内容や歴史解釈について、逐一検証し、あるいは反論をしていくということではなく、また、それは単に、明治維新から終戦までの日本人の一時期の精神の有り様に留まるというこではなく、この日本という国で生きて暮らしてきたすべての日本人の精神の歴史、それは言い換えれば、日本人が何を考え、生死についてどんなふうに感じてきたかということ。それを明らかにする契機として、わたしたちは、九段坂の上から、時空を超えて、遙か先へ先へと、視界を巡らしていかなければならないのではないか。そして、《靖国神社に絡まるように吹き出しているもの》、それは《生者の側》の意識であり、その《生者の側》の意識が、《死者の場》である「靖国神社」に絡まっている。その《生者の側》の意識を、少しずつ解きほぐしいくこと。それが「靖国」を考えるということではないのか。そんなふうに思います。


遊就館

〈開館時間〉
4月〜9月 午前9時〜午後5時30分まで
10月〜3月 午前9時〜午後5時まで

7月13日〜16日のみたままつり期間中は、午前9時〜午後9時まで
※入館は閉館の30分前まで
休館日 年中無休(ただし、6月末及び12月末に数日間の臨時休館日があります)

〈入場料〉
大人  800円
大学生 500円
中学・高校生 300円
小学生 100円

〒102-8246 東京都千代田区九段北3-1-1 靖国神社境内 
TEL 03-3261-8326

靖国神社HP
posted by 長良川画廊 at 09:45| Comment(1) | 日記