さて、今回は目白の『永青文庫』です。ここはわたしの好きな美術館の一つです。この美術館にはこれまで2回来ています。ちょうど白隠の展覧会をやっていたので、4月と展示替えのあった5月の2回、二ヶ月続けて行ってきました。JR目白駅から歩いて15分程。駅を出てすぐ目の前の目白通りを左方向にひたすら歩きます。すぐに学習院大学の西門があり、暫く歩くと田中角栄の目白邸があります。最初にここを歩いたときは、たぶん田中真紀子さんが外務大臣のときで、門の横には電話ボックスのようなものが置かれて警備の警官が立っていましたが、今は取り除かれて門は固く閉ざされれています。思えば田中角栄がここから検察に連行されたのが昭和51年(1976)、わたしが15歳のときで、人生の最も多感なときに、この人に象徴されるような日本の政治や政治家や社会を見せられたわけで、それが、わたしが一度たりとも選挙に行かない一つの遠因かもしれません・・、話をそらさずにさらにもう少し歩いて、目白通りから右へ路地に入ると、和敬塾という大学のような外観をした学生寮があります。作家の村上春樹も居たことがあり、彼の小説『ノルウェイの森』にも登場します。その和敬塾のすぐ先、雑木林に囲まれるようにして古ぼけた洋館が建っています。それが『永青文庫』です。門を入るとこの空間だけが時間が止まっているように感じます。静かで草の匂いがします。見上げるとあたりを覆った樹木の枝葉はきらきらと輝いて、日を遮るその隙間から挿す光がやわらかな落ち葉の道を所々明るく照らしています。わたしは暫し立ち止まり、森鴎外や夏目漱石の小説のなかに自分が迷い込んだような錯覚に陶然とします。このあたりは、江戸時代から戦後にかけて広大な肥後細川の屋敷があったところです。東京は、長く日本の歴史の中心にあって膨張と変貌を遂げてきました。今読んでいる坪内祐三さんの「靖国」(新潮文庫)にこう書かれています。
《東京の歴史を語る概説書によれば、江戸時代(十七世紀半ば)には、東京の西北に位置する台地に武家屋敷が並び、東南の低地には多く町人が住んでいた。この明確な住み分けが山の手・下町の二分割だった。この台地(山の手)と低地(下町)の境界は、今でも注意深く見れば、東京中のいたる所で目にすることが出来るのだが、もっとリアリティーを持って体感で出来るのは、靖国通りを、神田須田町方向から神保町を抜け、九段下に至り、九段坂を見上げた時である。その時私たちの背後には下町があり、九段坂の向こうには、もちろん坂下から窺い知ることは出来ないけれど、緑多い山の手の町並みが広がる。九段坂下から飯田橋方面に向かう目白通りはかっての山の手と下町の境界線でもある》
山の手と下町という、江戸時代から続いた東京の特色ある趣が戦後急速に消滅していくなかで、この『永青文庫』の一空間だけは、ぽっかりと時代から取り残されたように今もその面影をとどめ、わたしを過去へと誘わせてくれます。
『永青文庫』は肥後熊本細川家に伝来する歴史資料や美術品等の文化財を管理保存・研究するために、16代細川護立によって昭和25年に設立されたと『永青文庫』の公式ホームページ書かれています。『永青文庫』の所有する国内有数の白隠コレクションは、この護立によって近代に入って蒐集されたものです。
わたしがここに来るのは、白隠を見るという理由よりも、この場所が、日々のもろもろの煩わしさから、ひとときの休息を感じさせてくれるからであったとしても、やはり美術館マンスリーですから、少しは白隠についても書かなくてはいけないと思うのです。しかし、白隠の生涯をなぞって、「臨済宗中興の祖」、「近世最大の禅僧」、「今、日本に伝わる臨済禅の法系はすべて白隠下に連なる」、「近世禅画の巨人」、そんな紋切り型の文言を並べるだけのつまらないものしか書くことができないのなら、折角の白隠がもったいない。どうせ書くなら、ぐちゃぐちゃの文章であっても、多少でも自分の血肉にしてから書きたい。まあ、すべては言い訳ですが、要するに、今のわたしでは、それだけの力が無いということです。そこで、今回はプロローグのプロローグとして、思いついたことを書いてお茶を濁すことにします。ここの白隠はこれまでに何度か見ています。それでも、また見に来ようと思うのです。平成16年に京都文化博物館で白隠の大展覧会がありました。多くの白隠を見ることは、それは勉強の機会になるでしょう。それにくらべて、ここはもともとが美術館(永青文庫の建物は旧細川公爵家の家政所(事務所)として昭和初期に建てられたもの)ではないのですから、スペースも狭く、多くの白隠を見ることはできません。このごろ、つまらない弱音かもしれませんが、仕事上の動機や見方で「もの」を見ていても何も見えないのではないか、本当に「もの」の魅力にふれられないのではないか、という気がするのです。こうして、ここに来て白隠を見ようということに理屈を付けるのはやめて、一点の白隠、一点の自分の心に迫ってくる白隠の前に立てばよいのではないか。白隠はそこにあるのに、これまで、自分が白隠の前に立っていなかったのではないのか。そんことを今は考えています。そんなことを言いながら、すぐに仕事の話に戻って仕舞うのが商売人の哀しさですが、わたしが、書画屋のなかの書画屋と仰ぐ京都のM堂のMさんに、白隠というのは実際どういう人が買うのですかと尋ねると、「外人だ」と言われるのです。白隠の晩年の優品と言われるような作品であれば千万はゆうにするわけです。今、そんなお金を出せるのは外人だと。さらに、なぜ外人が白隠を買うのですかと尋ねると、「外人は白隠の禅画や書からパワーのようなものをもらうらしんや」というお話。「パワーのようなものをもらう」ということ、笑ってしまいそうですが、いいえ、そうではなく、わたしにはそういうものを感じられる、「もの」を見る素直さ、あるいは直感のようなものが欠けているのではないか。そんことを今は考えています。
いずれにしても、今はどうやって自分なりに白隠に迫るのか、五里霧中の状態ですが、やはり、白隠を宗教の側から捉えなければならないような気がします。白隠は達磨の絵に、「直指人心、見性成仏」と多く記しました。「見性」とは何か、白隠は42歳の秋、禅の厳しい修行の先、「法華経」を読誦中に、コオロギのなく声をきいて豁然として大悟したと言います。また、近代の禅者久松真一は、自らの「見性体験」として、最も厳しい座禅の修行、臘八大摂心によって、自らを絶体絶命の死地に追い込み、自身を覆った黒漫漫の一大疑団は忽然として内より瓦解解氷消し、未だかつて経験したことのない大歓喜地を得たと語っています。白隠を買い求める外人の、白隠から受けた「パワー」とは何でしょうか。白隠の画く豁然として見開いた達磨の「眼」、それは江戸時代の貧しい人々、読み書きも出来ず、ただひたすら働くことで生涯を全うするような人々に何を感じさせたのでしょうか。また、それも白隠の「パワー」と言えるのか。そこにこそ、白隠の白隠たるものがあり、禅アートの本質が隠されているのではないか。そんなことを今は考えています。
今月の20日は、靖国神社へ行ってきます。次回美術館マンスリーは、靖国神社遊就館です。久しぶりに積極的な気分で書けそうな気がします。白隠については、いつかまた再チャレンジします。