2008年07月21日

靖国神社「遊就館」

靖国神社「遊就館」は、靖国神社境内にあります。
地下鉄東西線の九段下駅1番出口を出て、そのまま九段坂を靖国通りに沿って歩き始めると、すぐに靖国神社の「大鳥居」が見えてきます。前回の「永青文庫」で触れましたが、坪内祐三さんの『靖国』(新潮文庫)には、このあたりが山の手と下町の境界がもっともレアリテを持って体感で出来ると記してあります。

《東京の西北に位置する台地に武家屋敷が並び、東南の低地には多く町人が住んでいた。この明確な住み分けが山の手・下町の二分割だった。この台地(山の手)と低地(下町)の境界は、今でも注意深く見れば、東京中のいたる所で目にすることが出来るのだが、もっともレアリテを持って体感で出来るのは、靖国通りを、神田須田町方向から神保町を抜け、九段下に至り、九段坂を見上げた時である。その時私たちの背後には下町があり、九段坂の向こうには、もちろん坂下から窺い知ることは出来ないけれど、緑多い山の手の町並みが広がる。九段坂下から飯田橋方面に向かう目白通りはかっての山の手と下町の境界線でもある。つまり靖国神社は、山の手、下町の境界の山の手側にある高台の上から下町を睥睨しているのだ》(『靖国』)。

わたしは、九段下駅1番出口を出て、靖国神社とは反対方向に坂を下り、九段下の目白通りから靖国神社の方向を見上げ、また靖国神社に向かって歩き始めました。坪内祐三さんの『靖国』に書かれているように、九段坂を見上げながら、車が行き交う片側二車線の靖国通り左手の千鳥ヶ淵周辺、高燈籠や品川弥二郎の像、田安門の先の仏塔のような武道館の大屋根などを見渡し、実践倫理宏正会の本部ビル、隣の日本電機大学のビルの横を通り過ぎると、目の前が靖国神社参道です。

《下町・山の手の東京二分法は、ある時期まで、昭和三十年代ころまでは有効に働いていた。明治維新後、東京は、計画的なもの非計画的なものを合わせて、ほぼ二十年に一度の周期で、大幅ないじくりが行われる。市区改正条例が施行され、近代都市への第一歩がを歩みはじめたのは明治二十二年(一八八九)のことである(明治六年五月の火災で焼失した皇居が再建され、明治天皇が赤坂離宮から、もとの江戸城であるその場所に移ったのもこの年である)。二十年後の明治四十二年には、日露戦争の帝都にふさわしいモニュメンタルな建物が次々と建設される。両国国技館が六月に完成し、日本橋や帝国劇場の開通(場)式が行われるのは翌々年、そして前年には日比谷図書館が開館し、東京中央停車場(東京駅)の起工式が行われていた。つまり明治二十年ごろに始まった近代東京の街作りが、ほぼ完成を見るのが日露戦争(明治三十七年〜三十八年・一九〇四〜〇五)直後のこの時期である。そして大正一二年(一九二三)の関東大震災、昭和二十年(一九四五)の東京大空襲という二大災厄を経て、太平洋戦争が終わるころには、東京から、江戸以来の建物は、皇居の一部を除いて、ほぼすべて消えてなくなってしまった。きれいさっぱりと。戦後はさらに、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す。しかも、それもまた、およそ二十年周期である。その第一が昭和三十九年(一九六四)の東京オリンピックである。昭和四十四年から映画化が始まった『男はつらいよ』によって、葛飾柴又までが下町に加えられてしまったけれど、東京人の頭の中の地形図から、下町・山の手の本来の意味や境界線が失われていったのは、多分このころのことだろう。そして下町の消失は一九八〇年代終わりのバブル景気による「街殺」によって決定的なものになる》(『靖国』)。

わたしは、靖国神社参道のすぐ手前まできて、後ろを振り向き、九段下方向から視界を徐々に広げてみました。そこには、わたしの知っている、見慣れた、秩序の乏しい、東京らしい都会の景観があります。山の手と下町、境界、睥睨・・。《東京の西北に位置する台地に武家屋敷が並び、東南の低地には多く町人が住んでいた》というかつての東京。残念ながら、坪内祐三さんが体感されたようなリアリティーをわたしは感じることができないようです。もっとも、《一九八〇年代終わりのバブル景気による「街殺」によって決定的なものになる》というそれ以降から、東京へぼちぼち通うようになった《東京人》ではないわたしには、それは無理からぬことなのかもしれませんが。それとも、「靖国」という回廊を巡って、再びここに戻って来たとき、わたしの視線の先には、また違った景観が広がっているのでしょうか。

さあ、前置きはこの位にして、靖国神社「遊就館」へと足を進めていくことにしましょう。

地下鉄東西線の九段下駅1番出口を出て、緩い勾配の九段坂を100メートルほど上り、靖国神社参道に入ると、最初に石製の「大燈籠」があります。これは西南戦争の官軍側の戦歿者慰霊のために、黒田清隆の編成した別働第二旅団によって奉納されたということです。そしてその先に巨大な鉄製の日本最大級という大鳥居があり、靖国神社の前身「東京招魂社」の生みの親であり、日本陸軍の創始者といわれる「大村益次郎」の銅像があります。どちらも行き交う人が仰ぎ見るようにそびえ立っています。そこからさらに進と、また、銅製としては日本一大きいという大鳥居があり、そこを過ぎるといよいよ靖国神社の正門です。正式には「神門」というそうですが、その扉には直径1.5メートルの金に輝く菊の御紋が張り付いています。そして、その「神門」の向こうに、人々が礼拝する「拝殿」があります。わたしは、拝殿に手を合わせる人々を後ろから一瞥して、「遊就館」へと向かいました。

今回の美術館マンスリーのテーマに靖国神社「遊就館」を選んだのは、戦後、靖国問題として、いろんなことが言われるなかで、とにかく、靖国という場所に行ってみて、わたしなりに考えを纏めてみたいと思ったからです。わたしは結局、靖国神社「遊就館」に四度来ることになりました。それは、できるだけ正確にルポルタージュするために時間を要したということですが、靖国神社という場所に、何かわたしの気づかない魅力、それは魔力かもしれませんが、わたしを引きつけようとする何かがあるのかもしれません。それはともかく、靖国神社「遊就館」は、靖国神社の一施設であり、靖国神社全体の意思を具体的に示し現す場所です。また、その歴史解釈、展示内容には多くの問題提起があるので、少し長くなり且つ記述的になりますが、靖国神社「遊就館」の展示について順を追って、できる限り正確に忠実に記しておきます。

(ここから続く遊就館ルポルタージュは、遊就館に行ったことがある方、または、行こうと思っている方は読み飛ばしていただいて結構です)


遊就館


遊就館は、拝殿を正面に見て右方向にあり、コンクリート造の本体に東洋風の屋根をのせた帝冠風の本館と最近の自動車ディーラーのようなガラス張りの新館から成っています。新館にある入場口から入ると、明るい日差しが差し込む玄関ホールには、かつて日本軍によって建設されたタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道を走った蒸気機関車C56や、零戦、大砲などが展示してあります。ここからエスカレータで二階に上がり順番に展示室を巡っていきます。まずエスカレータを上がって正面に日名子実三の「兵士の像」が置かれ荀子勧学篇「君子居 必擇郷 遊必就士 君子は居るに必ず郷(きょう)を擇(えら)び 遊ぶに必ず士に就く」という遊就館の名の由来について説明があります。そこから二階踊り場には中央に中村晋也の「かへりみはせじ」という小銃を持った兵士が前屈みになって進もうとするほぼ等身大のブロンズ像があり、映像ホール1は「私たちは忘れない」という50分のドキュメント映画が上映されています。

展示室1「武人のこころ」では、平安時代に天皇直属の警備官が儀杖用に用いた太刀を模した「元帥刀」が中央に厳かに鎮座しています。「元帥刀」とは、軍人最高の栄誉称号である元帥に天皇から与えられたもので、出征する将軍に天皇が全権を委任した証でもあります。そしてその背後に、賀茂百樹の和歌《いくさ人ささぐる剣の光よりひかりこそいづれ国の光は》が明るく照らされています。また、その「元帥刀」を囲むように、大和心の美しさや、命果てるとも国や天皇を守ることの尊さや潔さを賛美する六つの歌が掲げられています。孝明天皇御製の《矛(ほこ)とりて守れ宮人九重のみはしのさくら風そよぐなり》(幕末の危難に際して)、昭和天皇御製の《峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり》(昭和17年の新年歌会始め)、大伴家持の《海ゆかばみづくかばね山ゆかば草むすかばね 大君の辺にこそ死なめかへりみはせじ》、三井甲之の《ますらをの悲しきいのちつみかさね つみかさねまもる大和島根を》、宗良親王の《君がため世のため何か惜しからむ すててかひある命なりせば》、本居宣長の《敷島の大和心をひと問わば朝日に匂う山桜花》です。昭和天皇御製の下には〈国難に身を投じた幕末勤王の志士がまた大陸の南冥に北の海に赴いた将兵たちが国の前途を覆う黒雲をはらわんと嘆き歌いつつ剣をとった。いつの世にももののふの歌には日本人の高雅の精神があらわれている。〉とう説明があります。また孝明天皇御製の下には〈かつて我国の武人は国難の時に天皇から節刀を賜った。近代の戦場にあっても軍人は腰に刀を佩(お)びた。刀は神代の昔から日本人の心を映し、武人の魂を宿す正義と平和の象徴であった。〉と説明があります。また、大伴家持の《海ゆかば・・》は「海を行きたとえ水中の屍になろうとも、山を行き草の中に屍となろうとも決して天皇の下を離れることはない、天皇を守るためには我が命も顧みるこはない」という天皇に対する心情を読んだものですが、昭和12年に後に文化功労者となった作曲家信時潔が作曲し、戦争中に国民の愛唱歌として広く親しまれたものです。

次の展示室2「日本の武の歴史」は、大和の地をすべて平定し初代天皇に即位した伊波礼昆古命(いわれびこのみこと)こと元祖現人神の神武天皇以下、日本武尊、神功皇后、坂上田村麻呂、源義家、源頼朝、北条時宗、新田義貞、楠木正成、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、徳川光圀、大石義雄という、記紀や中世から近世にかけて登場する英雄たちの武勲が紹介され、併せて、桂甲、短甲とよばれる古墳時代の甲冑。鎌倉時代、戦国時代の甲冑、刀、弓、鉄砲。徳川斉昭の陣羽織など、武具の歴史を展示しています。ここで、神武天皇は次ぎのように紹介されています。〈第一代の天皇(古事記、日本書紀より)・長途の東征と苦難とを克服されて神武天皇は、国のすみずみまで同じ屋根の下で、人々が安らかに暮らせるようにと願い、大和の橿原に統一国家の基礎を据えられた。皇統は連綿と継承され、今上天皇は第百二十五である。・建国記念日は、神武天皇即位の日にあたる・〉。因みに、後醍醐天皇を吉野に追いやった足利尊氏の姿はありません。

ここからは、展示室3「明治維新尊皇の志士たちと戊辰戦争」から展示室15「大東亜戦争5」まで、日清戦争、日露戦争、満州事変、支邦事変(日中戦争)、大東亜戦争(太平洋戦争)という日本の近代戦争史を基軸に、その背景、経緯の解説と史料の展示が続きます。

展示室3「明治維新」は、19世紀のアジアは欧米列強によって浸食されたという視点を中心に、欧米によるアジア侵略の歴史と、ペリー来航と日米和親条約による攘夷への高まりから安政の大獄、公武合体、尊皇討幕運動、大政奉還にいたる明治維新全体を細かく解説しています。また、坂本龍馬、吉田松陰、西郷隆盛ら尊皇攘夷の志士たちの肖像などが展示してあります。

展示室4「西南戦争」は、明治政府の基本方針を示した五箇条の御誓文から西郷隆盛の征韓論、西南戦争の詳細など近代日本黎明期の様子が解説してあります。展示室5「靖国神社の創祀」は、靖国神社創建の歴史が紹介され、次の「特別展示室」は、《靖国神社が明治天皇の思し召しによって創建され、以来皇室から厚い御御処遇と御崇敬を受けて今日に至っている》として、橋本明治の「明治天皇第一図行幸図」、大山忠作の「大正天皇行幸図」、岐阜出身の洋画家北蓮蔵の「昭和天皇御親拝ノ図」、有栖川宮熾仁親王、小松宮彰仁親王ら宮家親王の写真、昭和天皇の軍服、大正天皇皇太子時代の木刀、軍旗、勲章など、主に靖国神社創建以降の天皇家ゆかりの品とそのかかわりについて紹介しています。銅色の神武天皇御像と勲功一級金鵄を始めとした勲章が並ぶその左右には、教育勅語、軍人勅諭が掲げられ、教育勅語には、《忠と孝とは「国体の精華にして教育の淵源」であると宣明され、「父母の考」に始まる徳目には、古代の道徳と開かれた近代日本の精神性がこめられ教育の基本として明治天皇は国民に諭された》、軍人勅諭には、《我が国の軍隊は、建国の理想に基づいて天皇が統率される意義を明らかにし、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五つの徳目は軍人の精神規範であり、行きやすい人の道でもあると明治天皇は軍人に諭された》と書かれています。

展示室6「日清戦争」は、戦利品の清国要塞抱がドーンと置いてあり、久保田米僊の日清戦争絵巻、任務必衰の精神として修身の教科書に載ったラッパ手木口小平の写真、海軍に奉納された女性の頭髪をによる30メートルに及ぶ毛綱、戊辰戦争以来の歴戦の士大寺少将の軍服などが展示され、日清戦争、北清事変にいたる日本の対外的な立場を、江華島事件から、壬午事変、漢城条約、天津条約、防穀令事件、金玉均の暗殺、東学党の乱、日清戦争、北清事変などに焦点をあてパネルで解説をしています。ここでの解説を要約しておきます。

開国した日本にとって国防の最大懸念は朝鮮半島情勢であった。当時朝鮮は、国内紛争が絶えず対外的には清国に隷従していた。日本の近代化は朝鮮の近代化を目指す改革派に影響を与え、実権を握った明成皇后閔妃ら改革派は、日本と江華島条約を結ぶなど積極的な開化政策を行った。しかし、旧体制派反乱軍による閔妃派高官、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害、日本公使館焼き討ちなどの壬午事変、それに続く甲申政変により清国の武力介入を招き、親清派の守旧派が実権を握る。その後、天津条約により日清両国の漢城(ソウル)からの即時撤退、将来朝鮮に出兵する場合の相互通知等が取り決められるが、東学党の乱を契機として清国軍が条約を守らず朝鮮に出兵する。そして、ついに日清戦争が勃発する。日清講和条約によって日本の長年悲願であった朝鮮の独立は確実のものとなるが、三国干渉によって遼東半島の清国返還を要求される。国力に劣る日本は要求を受諾する以外に道はなく、三国干渉への屈服は「臥薪嘗胆」の思いとなって国民にひろがり、ロシアの旅順、大連の租借と朝鮮半島への南下はあらためて国民に日露戦争への決意を覚悟させた。日清戦争後、弱体を露呈した清国に対し、露、独、仏、英の西欧列強は露骨な利権要求をし清国内での勢力を拡大させる。それに憤激した人々は義和団による排外運動によって決起、清国政府もこれに同調して欧米列強に宣戦布告、北京の外交公館を包囲攻撃する。日本は欧米列強連合軍の主力になってこれを鎮圧した。その際の欧米列強の傍若無人な振る舞いとは対照的な秩序ある行動は、北京市民に深く信頼され称賛された。

次の展示室7「日露戦争パノラマ館」からは、大砲の轟きとともに軍艦マーチが響いてきます。入り口には、パリの凱旋門の形をした白いショーケースが置かれ、その左右に海軍中将と陸軍中将の正装が飾られています。この凱旋門形のショーケースは、日露戦争後東京各地に仮説の凱旋門が作られ、そのうちの上野に仮説されたものを模して作られているそうです。その凱旋門を通って中にはいると日露戦争の戦闘映像が映し出され、その映像の前には、満州軍総司令官元帥陸軍大将侯爵大山巌以下、満州軍総参謀長陸軍大将男爵児玉源太郎、第一軍司令官陸軍大将男爵黒木為禎と名前と肩書きと顔写真を配した明治陸海軍幹部16人(他に奥保鞏、秋山好古、乃木希典、一戸兵衛、野津道貴、川村景明、橘周太、東郷平八郎、島村速雄、秋山真之、上村彦之丞、片岡七郎、広瀬武夫)の碑がずらずらと並んでいます。そして、《日本は立ち上がった・・、朝鮮半島の安定のために・・、朝鮮が占領されれば日本が危ない・・、植民地の人に大きな夢と希望をもたらしたのである。》などという勇ましいナレーションの声を背に、次の展示室8「日露戦争から満州事変」へ続きます。

ここでは、破壊筒を抱いて敵鉄条網に突撃自爆した「肉弾三勇士」の写真と突撃のレリーフ、沖の島近海で砲撃を受けて沈没した徴用船常陸丸の油彩画、戦艦三笠の甲板破片、乃木希典、東郷平八郎の像、銃や軍服などが展示され、宣戦布告から旅順港閉鎖作戦、沙河の会戦、奉天の会戦、日本海海戦まで日露戦争全般の戦史と、ポーツマス条約から韓国併合、第一次世界大戦と日本の参戦、尼港事件、山東出兵と斉南事変、満州事変から国際連盟脱退までを詳しく解説しています。また、高句麗の時代から満州国建国までとして、満州の歴史を紹介し、そこには新国家建設、新国家を支える人々と題し、にぎわう市街、拓けゆく新天地、理想に燃えた都市計画、大規模な営農、製鉄、ダムの建設などの文字が躍っています。ここでの解説を要約しておきます。

日露戦争につては、《世界が讃えた日本の戦勝》と題し、日露戦争当時のロシアは世界第一陸軍国で、国力が日本の8倍、陸軍兵力7倍で圧倒的優位であったにもかかわらず、アジアの小国日本は連戦戦勝で、その勇戦敢闘の戦いぶりは従軍記者によって世界中に報道され称賛された。また、日本の日露戦争での勝利は、特にアジアの青少年に与えた影響は20世紀の世界を変える原動力になったとし、次のように世界情勢を概観しています。《日露戦争の勝利は、西欧列強の重圧下にあったアジアの諸民族に独立の希望を与え、漢民族は辛亥革命で清帝国を倒し中華民国を建国した。一方ヨーロッパでは、統一によって欧州第一の強国になったドイツ帝国が、墺(オーストリア)・伊との三国同盟を結んで、バルカンから中東への領土拡張を図り、バルカンではロシアと、中東では英国と競合していた。特にスラブ人が多いバルカンの支配をめぐるオーストリアとロシアの対立は深刻であった。第一次世界大戦の勃発とロシア革命は、アジアに波及し日本も参戦した。そして、敗れたドイツへの過酷な報復は、第二次世界大戦の主因となった。》 次に日露戦争後満州事変、国際連盟脱退までは、その後の韓国併合は長年の安全保障の懸案は解決したが、第一次世界大戦が勃発し、英国と同盟関係にあった日本はドイツに宣戦し、青島及び南洋諸島を攻略した。第一次世界大戦後、日本封じ込めを主たる狙いとしたワシントン会議が開かれ、日英同盟、石井・ランシング協定(中国での日本の特殊権益に関するアメリカとの協定)などの従来の取り決めは破棄され、アジアにおける米国主導が強まる。一方中国は、各地に軍閥が割拠し内戦が激化し分裂していた。また、辛亥革命以来の民族意識と排外感情は、既存条約の廃棄へと向けさせ、それによる満州における排日運動と在留邦人の危機感は関東軍主導による満州事変の契機となり満州国の建設となる。満州事変の概容を説明したパネルには次のように書かれています。《昭和六年九月十八日、奉天郊外柳条溝付近の鉄道爆破事件をきっかけに、関東軍の一部によって引き起こされた事変で、昭和八年五月三十一日の溏沽(タンクー)停戦協定によって事実上終結した。我が国は、日露の戦勝で満州に権益を有していたが、中国のナショナリズムは現行条約にかかわらず外国権益の国益を求め在留邦人の生命財産を脅かした。このため関東軍の武力を行使し、その結果、満州国が樹立された。関東軍の行動は国民に支持されたが、列国はこれに強く反発し、日本は国際連盟から脱退した。》また、次のように、日露戦争から国際連盟脱退までの解説を結びます。《満州の地方指導者は関東軍の支援の下に清朝の廃帝溥儀を迎え、昭和7年3月1日に満州独立を宣言した。我が国は9月15日満州国を承認した。国際連盟は、中国の主権を残しつつ満州を自治区域とするリットン報告書を採択し、我が国はこれに抗議して連盟を脱退した。》

展示室9「招魂齊庭」では、新しく合祀される戦死者の招魂式の様子がディオラマで再現され、招魂式次第の説明と、招魂式に使われる御羽車と戦歿者合祀名簿(この戦歿者合祀名簿は、合祀に当たって天皇の手許に天覧に供され、今にいたるまで必ず天皇陛下の叡慮を受けているということです。)などが展示されています。招魂式とは、戦死者の氏名を記した霊璽簿を御羽車に納め本殿に奉遷する祭儀で、これによって戦死者は靖国神社に合祀されます。招魂式は先ず、靖国神社境内にある招魂齊庭に設けられた幄舎に霊璽簿を納めた御羽車据えて御霊を招く招魂の式を行い、続いて御羽車を神職が担ぎ、参列の遺族が座して見守るなか本殿へと奉遷されます。その様子は昭和8年から終戦までNHKのラジオで実況中継され、明かりを落とした展示室にはその当時の実況放送が流されています。

展示室10「支那事変」は、入るとすぐ、《やすらかに ねむれとぞおもふ 君のため いのちささげし ますらをのとも》という香淳皇后(昭和の皇后)の詠歌がディスプレイに映しだされています。展示室の陳列窓には、全身全霊のオリンピックランナーとして国民に知られた鈴木聞多陸軍歩兵少尉の遺品と写真。軍人としての武勲も華々しく、郎らかで人情味溢れる性格で部下から慕われ、「天皇陛下万歳」を三唱して戦死した「昭和の軍神」西住小次郎陸軍大尉の日誌。敬神崇祖の念篤く、大楠公の「七生報国」の精神を自らの信念とし、幼少期の憧れ陸軍師範学校へ進み、圧倒的な敵陣の前に、勅諭奉読、万歳三唱の後、塹壕より軍刀をかざして敵中深く切り込み戦死し、「武人の範」と讃えられた東宗治陸軍歩兵大佐の軍服と書簡。「身を楯にして負傷者を守れ、担架隊の任務は尊い人間の命を救うことだ。衛生兵が死んだら兵隊はどうなる。人間は肉体ではない、銃より硬い魂だ」と口癖のように部下を激励し、敵陣に切り込み戦死した担架隊の小隊長山本健一中尉の防弾チョッキなどが展示されています。そして、蘆溝橋事件から始まる支那事変全般の戦史と解説、張鼓峰事件、ノモンハン事件などの満ソ国境紛争についての解説がなされています。先ず、支那事変については次のよう概説されています。《昭和八(1933)年の塘沽協定で安定を見た日中関係は現地日本軍の北支工作とコミンテルン指導下の中国共産党による抗日テロの激化により、再び悪化した。蘆溝橋の日本軍に対する中国側の銃撃という小さな事件が北支那全域を戦場とする北支事変となった。背景には、このような中国側の反日機運があった。また中国側の挑発による第二次上海事変以降、蒋介石は、広大な国土全域を戦場として、日本軍を疲弊させる戦略を択び、大東亜戦争終戦までの八年間を戦い、戦勝国側の一員となった。》また、「支那事変全般作戦図」と題し次のように書かれています。《昭和十二年、七月七日夜の蘆溝橋事が北支全域の戦いになり、八月に第二次上海事変が勃発すると、蒋介石は総動員を下令して国共合作に踏み切り、日本政府も従来の不拡大方針を放棄した。ここに日中両国の実質的な全面戦争が始まった。蒋介石は重慶に移って徹底抗戦を決意し、日本軍は首都南京、さらに徐州、武漢や南支一帯を攻略した。しかし、双方ともに宣戦布告はせず、日本は「支那事変」と称した。》

次の展示室11「大東亜戦争1」からは1階に場所を移します。ここでは、太平洋戦争開戦前の世界情勢と日本の経済情勢、開戦に至るまでの日米交渉と日本の置かれた立場を詳しく解説しています。ここでの解説を要約しておきます。

ヨーロッパでは、国民の圧倒的支持を得てヒトラーが台頭し、ソビエトではレーニンの後継者スターリンが粛正に次ぐ粛正で権力を掌握し、軍事力による領土拡大と世界赤化政策を強力に推し進めようとしていた。一方、開戦前の日本は、対米国経済依存度が極めて高く、特に石油(9割輸入の内7割)、屑鉄などの大部分は米国依存していた。また日本の資源保有量は、石油24ヶ月、銅11ヶ月、ニッケル10ヶ月、生ゴム3ヶ月などであった。日米開戦を前提とした日本にとって、米国からの輸入が途絶えたときの新たな資源獲得は国家の存亡にかかわる重大な内題であった。また一方で、対米関係は、米国が蒋介石政府に大量の援助を供与し悪化していた。近衛内閣は、日独伊三国同盟により米国と交渉する立場を強め戦争を回避するという松岡洋右外相の対米政策を採用し日米交渉に開戦回避の道を探る。交渉は昭和十六年四月十六日に、野村大使が「日米諒解案」をハル国務長官に交渉の原案として提示するところから正式に始まるが、交渉は難航する。同年七月二十四日、野村・ルーズベルト会談において、ルーズベルト大統領は石勇禁輸を示唆し仏印中立化を提案。(日本は、昭和十五年九月から北部仏印(フランス領インドシナ)に進駐していた。)同年七月二十五日、米国が在米日本資産を凍結、次いで英国、蘭印(オランダ領インド)が日本資産凍結と通商条約等の破棄を通告。同年七月二十八日、日本軍はフランス政府の同意を得て南部仏印進駐にする。同年八月一日、米国は対日石油全面禁輸を実施。米国による対日石油全面禁輸は、国家の存亡を脅かすもので、日本に重大な決断を迫ることになる。日米交渉は、同年十一月二十六日の日本側最終譲歩案乙案に対する拒否と、米国側のハル・ノート提示によって、日本は開戦やむなしの結論に至る。

次の展示室12「大東亜戦争2」から展示室14「大東亜戦争4」では、昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃から沖縄戦までを、「侵攻作戦」、「攻防の転換点」、「守勢作戦」、「本土防衛作戦」にわけて戦史の説明が続き、ここでも、真珠湾攻撃の際に被弾し、不時着することなく飛行場に激突して戦死した飯田房太海軍大尉の軍服と遺影。真珠湾のアメリカ太平洋艦隊への特殊潜航艇での決死の魚雷攻撃作戦に志願し戦死した「真珠湾の九軍神」の遺影と特殊潜航艇呑の模型。アッツ島守備隊司令官として部隊とともに玉砕し戦死した山崎保代陸軍中将の遺書など、武勇の軍人の悲話や、関連の遺品などが多く展示解説されています。

展示室15「大東亜戦争5」の「終戦」では、《東郷外相は昭和十七年の年頭訓辞で何をおいても終戦工作の研究を命じ、外務省は和平の道を探るが、米国には交渉による和平の意志はなく、日本はポツダム宣言で示された条件を受諾し、講和までの約七年間、占領軍の支配下で再建への道を模索する以外に道はなかった。》とあり、《身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもて》という昭和天皇御製が掲げられています。また、最後のガラスケースには「パール判事 講演録」のパネルが挙げられ、そこには次のように書かれています。

《私は一九二八年から四五年までの十八年間の歴史を二年八ヶ月かかつて調べた。とても普通では求められないような各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴つた。この私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるとことがわかるはずだ。しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。そして自分らの子弟に『日本は犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙をあえてしたのだ』と教えている。満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して充分に研究していただきたい。日本の子弟がゆがめられた罪悪観を背負つて、卑屈、頽廃に流れてゆくのを私は見過ごして平然たるわけにはゆかない。誤られた彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。誤られた歴史は書きかえられねばならぬ。(昭和二十七年十一月六日広島高等裁判所においての講演録から抜粋)

また、第二次世界大戦後の各国独立と題し、《日露戦争の勝利は、世界特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。アジア民族の独立が現実になったのは、大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が敗れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した。》として、チャンドラ・ボース、ガンジー、ホーチミン、スイルノらアジアの独立の指導者たちを紹介しています。

ここまでで、「武人のこころ」、「日本の武の歴史」をプロローグとし、靖国神社の祭儀とその創建の歴史と経緯、明治維新から大東亜戦争、終戦にいたる軍事史とその背景の展示解説が終わります。そして、次の展示室16から展示室18まで、「靖国の神々」と題し、大東亜戦争で亡くなった軍人軍属の6362人の遺影と、自らの悲しい運命を覚悟し、残された家族への惜別の情を綴りながらも、国や天皇に命を捧げ、靖国に祀られる誇りを書き記した多くの遺書、手紙などが展示してあります。そして、最後の「大展示室」には、零戦や特殊潜航艇、高射砲などの武器、兵器が展示してあります。

最後に、「靖国の神々」に展示してある多くの遺書の内の一つ、三島由紀夫が「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない」と激賞した古谷眞二海軍少佐の遺書を記して、靖国神社「遊就館」ルポルタージュは一応ひと区切りを付けたいと思います。

《皇国の一男子として生を享けて以来二十有余年、國を挙げての聖戦に勇躍征く事を得ば男子の本懐、正に之に過ぐるものなし ものごころついて以来自分乍ら世才に長せりと感じ 幼友矢島君の男々しき武人姿をみるにつけ所詮身は軍人になれぬとは思ひ諦め居たるも 長じて茲に征途につくを得ば身を鴻毛の軽きにおき勇みて征かんの心激しからざるはなし 過去二十何年の間 陰に陽に愛しまれたる御両親の恩 甚だ深くして 浅学非才なる小生にしては御礼の言葉を見当たらず その深遠厚大なるに対し深く深く厚く厚く御礼申し上ぐるものなり 御両親はもとより小生が大なる武勇を為すより 身体を毀傷せずして無事帰還の誉を擔はんこと朝な夕な神仏に懇願すべくは之親子の情にして当然也、不肖自分としても亦、身を安じ健康に留意し、目出度く帰還の後 孝養を盡くしたきは念願なれども 蓋し時局は総てを超越せる如く重大にして徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状に至り。大君に対し奉り忠義の誠を至さんことこそ、正にそれ孝なりと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂いなく千戈を執らんの覺悟なり 幸い弟妹多く兄としてのつとめは果せざるを遺憾とは思ひつつも願わくは之等妹に父母の孝養を依頼したき心切なり 死すること強ち忠義とは考えざるも自分は死を賭して征く、必ず死ぬの覚悟で征く 萬事頼む 十八年六月十日 眞二》

(遊就館ルポルタージュ・了)



「靖国」を巡る問題


「靖国」を巡る問題、それは、具体的には中曽根康弘が首相在任中の1985年8月15日に公式参拝をしたことによる、主に中国、韓国、朝鮮からの大きな反発によって、それ以降、首相の参拝や、A級戦犯合祀などについて様々な発言がなされてきました。そこには、大別すれば、靖国神社は、日本のために戦って死んだ人を祀る場であるから、日本人として、そこに行き慰霊することは当然ではないか。ましてや首相が率先して、国民の代表として参拝することは当然ではないか。このような意見と、これに対立し、首相が参拝することは、政教分離の原則を謳った憲法第20条に違反するではないか。戦前の軍国主義の精神的支柱の役割を果たした靖国神社に参拝することは、日本の戦争責任を曖昧にし、戦前の国家体制を肯定することに繋がっていくのではないか。このような二つ立場があって、両者の議論は相容れず、ある種憎悪にも似た感情を持って、それぞれがその正当性を主張しています。わたしは、靖国神社を巡る対立と論争の俎上で、自らの意見を主張しょうとは思いませんが、靖国神社を大切にし、こころの拠り所にしている人たち(以降、靖国の人たちと総称します。)と、そうではなく、靖国神社を否定する人たち(以降、靖国を否定する人たちと総称します。)の間で起こる齟齬について、それが何によって引き起こされるのか。何が問題の本質なのか。靖国の人たちの考えを交えながら、わたしなりの靖国考を纏めて行きたいと思います。

先ず、靖國神社ホームページには次ぎように書かれています。


靖國神社の由緒


靖国神社は、明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社が始まりで、明治12年(1879)に「靖国神社」と改称されて今日に至っています。
靖国神社は、明治7年(1874)1月27日、明治天皇が初めて招魂社に参拝された折にお詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創立された神社です。「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
靖国神社には現在、幕末の嘉永6年(1853)以降、明治維新、戊辰の役(戦争)、西南の役(戦争)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの国難に際して、ひたすら「国安かれ」の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々の御霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉しくお祀りされています。

以上、わたしなりに要約し補足すると、

靖国神社は、天皇を国家元首とする大日本帝国憲法(明治憲法)によって日本を統治する国家が、その国家保持のための戦争によって死亡した軍人軍属を祀るために、明治2年に「東京招魂社」として創建し、明治12年、「東京招魂社」を「靖国神社」と改称し、別格官幣社として神社としての社格を整えて以降、(明治15年、遊就館開館)陸軍省と海軍省の共同管轄となり、昭和21年の宗教法人令改正によって一般宗教法人なるまで、国家護持としての役割を担ってきた。依って、靖国神社は、彰義隊や白虎隊の死者、西南戦争で自刃した西郷隆盛、佐賀の乱で処刑された江藤新平など、明治新政府に抵抗した側の死者は祀られていない。また、後醍醐天皇に背いた足利尊氏は祀られていない。また、原爆や空襲で死亡した一般市民、沖縄で戦闘に巻き込まれ死亡または自害した一般市民は祀られていない。(但し、昭和40年(1965)、靖国神社の片隅に鎮霊社とよばれる小さな祠堂がに建立され、そこに、明治新政府に抵抗した側の死者、彰義隊や白虎隊や西郷隆盛も、空襲で亡くなった一般の市民も、さらに世界中の戦没者が祀られた。しかし、それらの死者は、靖国神社に合祀されてはいない。(参照・前述の遊就館展示室9「招魂齊庭」)

さらに靖国神社ホームページには次ぎように書かれています。

靖國神社の起源

靖国神社の起源は明治2年(1869)6月29日に建てられた東京招魂社に遡りますが、当時の日本は、近代的統一国家として大きく生まれ変わろうとする歴史的大変革(明治維新)の過程にありました。それ以前、日本は徳川幕府の政権下にあり、約250年にわたって鎖国政策をとり海外との交流を厳しく制限していました。ところが、アメリカや西欧諸国のアジア進出に伴って日本に対する開国要求が強まると、開国派と鎖国派の対立が激化し、日本の国内は大きな混乱に陥ります。そうした危機的状況を乗り切る力を失った徳川幕府は、ついに政権を天皇に返上し、日本は新たに天皇を中心とする近代的な国づくりに向けて歩み出すこととなったのです。しかし、そうした大変革は、一方において国内に避けることのできない不幸な戦い(戊辰戦争)を生み、近代国家建設のために尽力した多くの同士の尊い命が失われる結果となりました。そこで明治天皇は明治2年6月、国家のために一命を捧げられたこれらの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるために、東京九段のこの地に「招魂社」を創建したのです。この招魂社が今日の靖国神社の前身で、明治12年(1879)6月4日には社号が「靖国神社」と改められ別格官幣社に列せられました。

この、「靖國神社の起源」と「靖國神社の由緒」に書かれていることを読むと、靖国の人たちの歴史認識、国家観を感じることができると思います。また、それが、遊就館の展示や解説によく表れています。そして、それは、日本の国家は、徳川政権から明治政府に変わろうとも、《万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。》という「国体の本義」に基づき建国以来一貫しているという皇国史観に立脚していることは今さら言うまでもありません。靖国問題として、その両者の齟齬の分岐点にあり、この問題を複雑にするのは、この「皇国史観」が、靖国の人たちたちの歴史観のなかで、大なり小なり受け入れられることであり、この「皇国史観」に依拠してイメージを膨らませると、当然ながら、そうではない人たちとの歴史観、歴史認識とは違ったものになってきます。

《アメリカや西欧諸国のアジア進出に伴って日本に対する開国要求が強まると、開国派と鎖国派の対立が激化し、日本の国内は大きな混乱に陥ります。そうした危機的状況を乗り切る力を失った徳川幕府は、ついに政権を天皇に返上し、日本は新たに天皇を中心とする近代的な国づくりに向けて歩み出すこととなった》(靖國神社の起源より)

アメリカや西欧諸国のアジア進出という外圧によって、その危機的状況を乗り切るために、徳川幕府は、ついに政権を天皇に返上し、日本は新たに天皇を中心とする近代的な国づくりに向けて歩み出した。つまり、日本という国は、アメリカや西欧諸国とは違った文化、価値観を持って歩んできた。しかし、彼らはそれを許さず、彼らと同じ価値観、彼らと同じ歴史観を受け入れるよう強要してきた。靖国の人たちを代表する論者の一人、小堀桂一郎さんは、靖国神社が発行している『遊就館図録』の巻末に「解題」と題し、次のように書いています。

《近代とは抑(そもそ)も何であるか。それは元来が西洋史の時代区分の中で考えられた概念なのです。近代は古代や中世に比べて明らかに立ち勝った一つの価値であると判定されてをり、且つそれが、現に我々が享受してをります近代文明の諸々の成果を考へてみれば、地球的規模で通用する普遍的価値であることには疑ひがありません。しかし今ここで〈西洋史の時代区分で考えてみれば〉としたところからも浮き出て参ります様に、近代とは元来が西洋的価値観の産物なのでありまして、我が日本民族が神武肇国の昔以来参じて来ました自足安定型の文化的価値尺度と(上記の如く普遍的共通部分はもちろん存するものの)全面的に一致するものではなかったのです。
 日本民族は戦国時代の末期(キリスト教紀元での十六世紀半ば)にいはゆる南蛮文化の渡来に接して初めてその西洋的価値観との交渉を持ったのですが、明敏な我が祖先の戦国武士たちは、その接触現場での経験を通じて敏感に彼我の文化的価値の相容れ難い相違を感じ取り、以来この異文明との交渉に非常な慎重を期する態度を守り続けました、彼我の文化的交流は、徳川幕府の政策として、意識された抑制と制限の枠内で行われてゐたのです。
 しかしながら爾来約三百年を経過した徳川時代の末期(キリスト教紀元での十九世紀半ば)に至りますと、西洋近代といふ名の文明に本来的に内在する自己拡張欲の必然の結果として、彼らの支配下にある国際社会は、日本民族が三百年来とつてきた制限的な対外交流姿勢をもはや認めようとしなくなったのです。日本は「近代」といふ西洋的価値観を彼等と共に奉じ且つその文明史観を共有することを強要されました。それに承服しなけば、彼等の文明に自らの存在が併合されてしまう危険が判然と眼に映りました。近隣のアジア諸民族が西洋文明の拡張的攻撃的圧力に屈して自らの文化を喪失してゆく危険、乃至は既に喪失してしまった悲運の姿を、幕末の先覚者達は大いなる警告として身近に目撃してゐました。このまま従来の行き方を続けて行けば、あのアジア諸民族の文化喪失の惨状は明日の我々の運命となってしまふ・・・と、先覚的知識人達は豁然と眼を開き、そして自衛行動を開始したのです。》

また、小堀桂一郎さんは、『国民精神の支柱としての靖國の記憶』と題する講演のなかで、国民主権、平和主義、基本的人権の憲法三原則に触れて次のように語っています。

《まず第一に国民主権主義でありますが、これは日本の歴史から導き出すことのできない思想なのです。日本という国は神武天皇の建国以来天皇の統治したまう国であります。大日本帝国憲法では、それはまず第一条に明言し、第四条で少し敷衍して、いわゆる立憲君主制の原理に結び付け天皇は統治権を総攬なさる存在だというふうに定義いたしました。その統治の権限の源、法律学の方では法源という言い方をいたしますが、それは皇祖天照皇大神の神勅にある。決して国民の信託によるものではないのです。現行憲法の前文を見ますと、「ここに主権が国民に存することを宣言し」とありますが、こんな不思議な判断は、日本国民が二千年の有史以来、この占領方針の言明を通じて初めて聞く面妖な表現なのです。》

以上、『靖國神社の起源』、小堀桂一郎さんの『解題』、『国民精神の支柱としての靖國の記憶』から、あるいは「パール判事講演録」を日本近代史の総括として示す遊就館の在り方からも、共通する、近世から近代へ至る歴史観と、そこに、明治維新から終戦に至る日本の国家の在り方を肯定する近代史観のバックボーンを読み取ることができると思います。



わたしは、

二世紀半にも及ぶ日本の歴史上最後の武家による独裁体制の崩壊を、その経緯と背景を素通りして、アメリカや西欧諸国のアジア進出という外圧に短絡させ、《地球的規模で通用する普遍的価値》であるはずの日本の近代を、二世紀半にも及ぶ幕藩体制下の社会が、単純に泰平の良き時代であったかのように語り、《日本が好むと好まざるとに拘わらず自らをも近代化することなしには西洋近代が力を以て我に迫ってくる分割・併合の脅威に耐へることはできなかった》がために、無理矢理押しつけられたものであり、《日本は幕末開国以来の近代化=西洋化の究極の帰結として、その近代化運動の我国にとっての模範であった米英両国との力の対決を迫られ》《その様な宿命と闘ってきたのが日本の近代の歴史だった》とする、小堀桂一郎さんの歴史観には多いに疑問を感じますが、歴史は単純ではなく、多面的であり、小堀桂一郎さんのような歴史観があってもよいし、また、このような歴史観も、歴史の一面として真実であるでしょう。しかし、日本の歴史を大きく顧みるとき、わたしたちから見た今の国家があることと同様に、その時代に生きた人たちにとっての国家があります。現在の歴史学は、支配者の視線からの歴史ではなく、古文書や日記等の同時代史料を分析し読み解くことによって、あるいは、民族譚などの民族資料を収集し、未開の心性をたぐり寄せる民俗学の手法によって、そこに生きた多くの〈支配された人たちの側〉から歴史の再構成をすることであり、決して《神武天皇の建国以来天皇の統治したまう国》を前提として日本の歴史を読み解くことではありません。わたしは、いまここで、江戸時代の実像について、具体的事例を取り上げて、小堀桂一郎さんに反論しようとは思いませんが、あくまでも日本の国家としての歴史は、その時代に生きた人たちにとっての国家として、日本人の営みの内に支配の成り立ちとその変遷として相対化されなければならないはずです。そして、日本の支配構造の中心にあった天皇という存在についても同じように、神格化された日本の統治の権限の源として絶対化するのではなく、村落共同体から古代国家が形成され、ヤマト王権の成立から、天皇を中心とした律令体制へ、次に、武家を中心とした封建体制へ移り、武家体制の崩壊から近代国家へと至る、大凡3世紀半ば頃からの日本の歴史全体のなかで、天皇という存在がいかに、人々の上に聳える、届かざる存在、触られざるべき存在、祀られた存在として神格化されていったかということを、その時代に生きた人たちにとっての天皇として、日本人の営みの内に相対化されなければならない。それは、同時に、今のわたしたちにとっての〈天皇〉、あるいは〈天皇制〉について考えることでもある、というように思います。

美術館マンスリーfile4「曾我蕭白―無頼という愉悦」に、「蕭白の生きた時代」として、徳川という時代の一面について、わたしなりの一つの見方を記していますので、よろしければご参照ください。)


わたしの、靖国を巡る旅も、ずいぶん長くなって、そろそろわたしなりの結論に向かいたいのですが、水の中で魚を掴むかのように、掴んでいてもすぐにつるっと抜けてしまう。自分の頭の中では、問題の核心部分が目の前に見えてきて、今すぐにでも明々白々に言葉にすることができるように思うのですが、実はそうはいかない。そんな状態がわたしのなかではずっと続いている感じです。靖国への様々な思いは、それぞれの思いや感情を抱えて、そこに論理や思想も絡まっていますので、すべてをひっくるめて、誰もが黙り込むような明白な答えを見いだすことは至難なことです。ここで最後にもう一人の靖国の人たちを代表する重要な論者、江藤淳さんの言葉を書き記しておきます。江藤淳さんは、小堀桂一郎さんと共編で、〈日本の鎮魂の伝統の伝統のために〉と副題の付いた『靖国論集』を出しており、その中で、『生者の視線と死者の視線』と題し、小堀桂一郎さんとは少し違う角度で靖国への思いを語っています。江藤淳さんは、公式参拝問題に触れて、一方には国家の持続という命題があり、他方に憲法典の変化という事実があって、その相互の間に生ずる矛盾をどう処理するかが、公式参拝問題の本質であり、国家の持続という点を主眼として見るか、憲法典の変化ということのみを見るかが、根本問題であるとした上で、次のように語っていきます。

《なぜならば、これは渡部昇一さんをはじめ多くの論者が指摘しているように、Constitutionという言語が、成文憲法の意味で使われるようになったのは比較的新しい用例ですね。合衆国が成文憲法の作成に着手し、フランス共和国が成文憲法を採用した18世紀末から始まった。「OED」(※オックスフォード英語辞典)の用例によると、Constitutionの原義は、make-up of the nation' つまり成文・非成文のいかんにかかわらず、文化・伝統・習俗の一切を包含した国の実際の在り方ですね。渡部昇一さんのように「国体」と言うと「国体の精華」というように戦前の日本の国家体制に限定されすぎる恐れもありますから、敢えて英語で「make-up of the(a) nation」といって置きます。つまり憲法典というものは、単に国のmake-upの上にのっかているのにすぎず、したがってConstitutionの部分であって決して全体ではないのです。明治憲法典は、プロシャ流立憲君主体制の鋳型に入れて日本のmake-up of the nationを法制化しようとしたものにすぎないし、現行憲法典は、アメリカを主体とする連合軍の日本占領という現実の上に立ち、占領政策の固定化という目途のために、二十五人の米陸海軍軍人が、僅か六日六晩で粗忽のうちに起草したものにすぎない。つまり、日本のConstitutionの上に憲法典がのっかっているのであって、憲法典が一義的にConstitutionを規定するという考え方は採用しないというのが私の基本的な考え方です。したがって、憲法典は現に存在するけれど、あってもいいしなくてもちっともかまわない。日本人にとって一番大切なもの、日本人がおのずから親身になれるものは、日本の国柄そのものですね。つまり、make-up of the nation ― make-up of Japanであって、これは要するに『記紀』『万葉』以来、今日に至る日本という国の持続そのものが織りなしてきたものです。その上に個人としての記憶も民族としての記憶も全部堆積しているのです。》

さらに江藤淳さんは《日本の国柄》について、

《国柄とは何かというと、生きている人間だけに関して言えば、wey of lifeだと言うことも出来る。アメリカにはAmerican way of life がある。これは、平和と民主主義と基本的人権という言葉で、占領当初以来日本にも翻訳されて伝えられている。この「American way of life 」をある時期のアメリカ人は普遍妥当なものだと考えた。しかし今日のアメリカ人は、本当にそうなのかどうかという疑惑を持ち始めている。その疑惑はアメリカの国柄にとって、大きな問題になりつつあると思う。では、われわれの国柄というのは何だろう。American way of lifeというものがアメリカ人の生きざまなら、日本にも当然Japanese way of lifeというものがあるはずであり、それはかならずしもAmerican way of lifeと一致する必要はない。なぜなら、日本のmake-upとアメリカのmake-upがそもそも違うものですから。Japanese way of lifeとAmerican way of lifeが違うとすれば、生きている人間のwayが違うだけでなくwey of dead' つまり死者を遇する遇し方も違うはずです。これはなおざりにできない問題だと思います。(中略)(折口信夫の『叙情詩の発生』に触れて)日本人が風景を認識する時には、単なる客観的な自然の形状として認識するのではなくて、その風景を見ている自分たち生者の視線と交差する死者の視線をも同時に認識しているのです。宗教的な心情と、風景に対する敏感な感受性とは、常に表裏一体になっているのですね。日本人は身辺嘱目の風景を眺めている時でも、同じ風景を見ているもう一つの視線、つまり死者たちの視線を同時に感得することによって、そこからある喜びと安らぎを汲み取り、死者たちに対する呼びかけの気持ちを通わせようとする。そこに日本文学の特種な性格があるのです。死者とは限らない。もっと拡大して、不在の者の霊といってもいい。たとえば同じ人麻呂の歌 ―
笹の葉はみ山もさやに騒げどもわれは妹思ふ別れ来ぬれば
野宿していると、笹藪が風を受けている、非常に不安な時に、自分の妻から託されたお守りの領巾を握りしめながら、自分の魂が憧れ出ないように鎮め、同時に傍らにはいない妻の魂を鎮める。死者の魂、それから別れて来ていまは不在の妻の魂は、眼の前にはいないというそのことにおいて同じものなんですね。その魂鎮めに意味合いが、「景が情を象徴するばかりか、情が景の核心を象徴」(『叙景詩の発生』)するという、風景認識の営みをささえている。初めの場合には志賀の辛崎とか、志賀の大曲というような場所の認識となり「笹の葉はみ山もさやに騒げども」の場合には聴覚にとらえられた風景。そういう風景の認識が、八世紀にまとめられた最初の詩歌集である『万葉集』の中に随所にちりばめられている。つまり、折口博士が言われるように、生者だけが物理的に風景を認識するのではない。その風景を同時に死者が見ている、そういう死者の魂との行き交いがあって、初めてこの日本という国土、文化、伝統が成立している。それこそ日本のConstitutionである。Japanese way of lifeは、そのままJapanese way of the deadでもあるのです。つまり死者のことを考えなくなってしまえば、日本の文化は滅びてしまう。日本文化というのは、ある意味で死者の文化と言っていい。ラフカディオ・ハーンは〈神国〉というのは〈死者の国〉という意味であると言っています。人から魂魄が離れて〈神〉になるからでしょう。したがって日本人にとっての神というものは、Godでなくてdeityであって、神はやはり人間とある意味で連続しているのですね。血縁において、記憶において連続しているけれども。他界へ行ってしまった魂であるが故に、一面において生者とは断絶している。断絶と連続とが同時に存在しているのが、日本人と死者との関係であって、だからこそ、日本の国土、日本人の嘱目する風景、日本人の日々の営みは、常に死者との共生感のうちにあるといわなければならない。死者と〈共生〉しているというのは矛盾のようだけれども、実は死者と共に生きるということがなければ、われわれは生きているという感覚を持てないのですね。その感覚が日本文化の根源にある。つまり、日本のmake-up of the nationの根源にある。非常に重要な感覚です。》

そして、江藤淳さんは、政府主催『閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会』の席上、次のような感覚にしばしば襲われたと言い、靖国神社への思いを次のように語っている。

《私は、席上しばしば総理官邸の大食堂の梁を見たものです。そのへんから英霊の眼が見詰めているという感覚にしばしば襲われた。この人々はいったい何をやっているのだ、なぜこんな枝葉末節の議論をしてゐるのだ、われわれは祀らないでいいのだろうか。日本の総理大臣が、日本の国民を代表して靖国神社の社頭に深々と額ずく。そんなこと当たり前のことじゃないか。額ずこうが額ずかまいが、自分たちは靖国の鬼として生者たちの営みを見守っているけれども、何という乾き切った心で生者たちは生きているのだろう、哀しいことではないか、というささやきが耳に聴こえるような感じがしてならなかった。(中略)

帝国臣民ニシテ戦陣ニ死し職域ニ殉シ非命に斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル処ナリ

これが靖国神社公式参拝問題の根拠です。陛下がこう仰せられたではないか、「五内為ニ裂ク」とまでおしゃったではないか。今でも戦没者の追悼式に出てこられて、「いまなお胸の痛むのを覚えます」と、陛下は毎年繰り返しておられる。そう申し上げては畏れ多いけれど、陛下はあの一言を繰り返すためにだけ、健康に留意し、ご高齢を保っておられるんじゃないか。(中略)その年々のご心境を反映したお声で「五内為ニ裂ク」を口語でおっしゃりつづけておられる。それで遺族も国民も、ああ陛下は憶えていてくださる、陛下のために死んだ自分の夫を、自分の息子を、父を、あるいは祖父を憶えてくださると思って、武道館に参集して、ありがたいことだと思って帰ってくる。そして九段坂を向こうに渡って、必ず靖国神社にお参りしてくる。》

江藤淳はこの『生者の視線と死者の視線』のなかで、《日本人にとって一番大切なもの、日本人がおのずから親身になれるもの》は、《日本の国柄そのもの》であって、その《日本の国柄》とは、文化・伝統・習俗の一切を包含した国の在り方そのものであって、日本人がいかにこの国で生き、かつ死んできたかということの積み重ね以外のものではありえない。それは、明治憲法典でもなく、いわんや現行憲法典でもありえない。つまり、広い意味でも、深い意味でも、日本の文化の問題である。従って、憲法20条の第3項、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という現行憲法典の法解釈など片々たる枝葉末節にすぎないと切り捨てます。

わたしは、小堀桂一郎さんの言っていることについては、その論理としてはよく理解できます。小堀桂一郎さんは、明治憲法第1条の〈大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス〉と同じく《日本という国は神武天皇の建国以来天皇の統治したまう国であります。》とはっきり宣言するように、明確な皇国史観に立って発言しています。そこに立脚すれば、現在の日本は今でも大日本帝国であり、同じように、その国民精神の拠り所である靖国神社は神社であって神社でない。だから政教分離などという法律論の対象にはならない別次元の存在である。ましてや、占領軍が押しつけた現行憲法など尊重する必要もない。となるわけです。それに対し、江藤淳さんは、《『記紀』『万葉』以来、今日に至る日本という国の持続そのものが織りなしてきたもの》と表現はしますが、その《織りなしてきたもの》が、天皇を中心にしたものだとは言わない。《日本の文化の問題》であると言う。しかし、一方で《死者を悼むという心情》を断ち切ってしまったら《国家は到底維持出来ない》と言う。江藤淳さんにとっての《国家》とは何なのか。

現在の日本人で、どれだけの人が靖国神社に慰霊に行っているか、どこに住んでいるかの違いはあるでしょうが、わたしの周辺の人で、それも70歳以上の戦争体験者のなかで、靖国神社に慰霊に行ったことのある人は一人もいなかった。しかし、靖国に行かなくとも《死者を悼むという心情》を断ち切ってはいない。江藤淳さんの言うように、お盆には必ず墓参りに行き先祖に手を合わせてくる人たちであり、それぞれの戦争の思いを胸に宿しているだろうと思う。江藤淳さんや、そのほかの靖国の人たちは、なぜそこまで靖国にこだわるのか。靖国神社は幸いにして、戦後潰されることなく戦後の社会に残った。そして、わたしたちはそこに行けばいつでも手を合わせることができる。江藤淳さんは、大切なものは《文化・伝統・習俗の一切を包含した国の在り方そのものであって、日本人がいかにこの国で生き、かつ死んできたかということの積み重ね以外のものではありえない。》と言い、《それは明治憲法典でもなく、いわんや現行憲法典でもありえない。つまり、広い意味でも、深い意味でも日本の文化の問題である。》と自ら言っている。つまり、日本の文化の問題であり、国家の問題ではないはずです。しかし、靖国神社は、それが好か悪かは別として、明治国家による国家神道政策によって、国家への献身と忠誠への精神的支柱として国家神社の役割を担い、神を祀る場としての靖国神社と表裏一体で機能したことは否定できない事実であり、そこにおいて、靖国神社が明治天皇の思し召しによって創建されたというのなら、天皇の果たした役割は、支配者の側で機能した天皇という側面を否定できない。そうではなく、天皇についても、靖国神社についても、江藤淳さんが言うように《日本の文化の問題》として考えるなら、先にわたしが述べたように、天皇という存在が、いかに人々の上に聳える届かざる存在、触られざるべき存在、祀られた存在として神格化されていったかということを、その時代に生きた人たちにとっての天皇として、日本人の営みの内に相対化させるしかないではないか。それは、同じように靖国神社というものも日本人の営みの内に相対化させることに他ならない。それは、別の言い方をすれば、天皇を国家から引き離すことであり、靖国神社を国家から引き離すことである。これが、わたしの靖国考の一つの結論でもあります。


わたしは、ここで、取り敢えず今回の靖国考を了とすることにします。


わたしは、江藤淳さんの国家観について、その本当のところはよくわかりませんが、たぶんご自身のアイデンティティーの問題であろうと思います。この人のなかに、国家(日本人であること)に繋がっていなければ、自己の存在を確認できない意識がどこかに働くように感じます。しかし、江藤淳さんは、近代的知識人でもあるから、明治の元勲のごとく、小堀桂一郎さんのように《日本という国は神武天皇の建国以来天皇の統治したまう国であります。》とは言えない。今、靖国神社に絡まるように吹き出している様々な思いや対立の根底に、そういう日本人としてのアイデンティティーの問題が大きく横たわっているように思います。次にそこに言及し、国家とは何かという問題に踏み込んでいくことは、実はわたしの本当の目的であり、その先に、私たちにとっての未来の国民と国家のイメージに思いを馳せていきたいし、そうでなければ靖国について考える本当の意味がないわけです。しかし、それは今後の大きな課題として、今回、靖国神社について考えを巡らしたことは、我が乏しい知見と貧しい想像力であっても、今後、《国家》というものを考えていくうえで、役だっていくことでしょう。


最後に、


わたしは、謂わば国家神社である「靖国神社」のその観念の表出とでも言うべき靖国神社「遊就館」の展示が、戦後の価値観のなかで洗い出されたものではなく、また、それが《大日本帝国》の歴史を肯定し美化するものあっても、《大日本帝国》の残骸として、「靖国神社」と一体になって、〈明治維新によって日本に誕生した近代国家のその破滅までの生々しい精神の歴史〉をわたしたちに伝える場として、この戦後の日本に存在していてもよいと思います。わたしは、「靖国」を考えるということが、先に長々と記した靖国神社「遊就館」の展示内容や歴史解釈について、逐一検証し、あるいは反論をしていくということではなく、また、それは単に、明治維新から終戦までの日本人の一時期の精神の有り様に留まるというこではなく、この日本という国で生きて暮らしてきたすべての日本人の精神の歴史、それは言い換えれば、日本人が何を考え、生死についてどんなふうに感じてきたかということ。それを明らかにする契機として、わたしたちは、九段坂の上から、時空を超えて、遙か先へ先へと、視界を巡らしていかなければならないのではないか。そして、《靖国神社に絡まるように吹き出しているもの》、それは《生者の側》の意識であり、その《生者の側》の意識が、《死者の場》である「靖国神社」に絡まっている。その《生者の側》の意識を、少しずつ解きほぐしいくこと。それが「靖国」を考えるということではないのか。そんなふうに思います。


遊就館

〈開館時間〉
4月〜9月 午前9時〜午後5時30分まで
10月〜3月 午前9時〜午後5時まで

7月13日〜16日のみたままつり期間中は、午前9時〜午後9時まで
※入館は閉館の30分前まで
休館日 年中無休(ただし、6月末及び12月末に数日間の臨時休館日があります)

〈入場料〉
大人  800円
大学生 500円
中学・高校生 300円
小学生 100円

〒102-8246 東京都千代田区九段北3-1-1 靖国神社境内 
TEL 03-3261-8326

靖国神社HP
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2007年06月08日

白隠和尚 ― 禅僧の書画 ―

お久しぶりです。前回からもう半年過ぎてしまいました。この間、生活がこれまでと特に変わったわけではなく、東京出張のときは、一日の休みを利用して美術館に足を運ぶことも以前と同じです。体調も特に気になることは無く、以前の頭痛も近頃はさほど気にならなくなりました。また、家族や老人の域に入っている親にやっかいな問題が起こったということもありません。一つトッピックスとしては、わたしの息子(前妻の子)が去年の11月から東京の画廊に丁稚に行くようになったことです。この息子、高校に入るまではわたしとわたしの今の女房と一緒に暮らしていましたが、「お母ちゃんと暮らしたい」と言ってからは母親のもとで暮らしておりました。高校は特に興味もないのに、山本寛斎、Mr.マリックと同じ工業高校の電子機械科に行き、途中2回停学になりましたがなんとか卒業をし、次も、特に興味もないのに建築の専門学校に2年通い、そこを卒業してからは、冬はスキー場でスクールやパトロールの仕事をして、それ以外はトヨタの季節工や引っ越しのアルバイトなどをしていたようです。何もしたいことがない、頑張りたくない、人を羨ましいとも思わない。そんなトレンディーな生き方も、そう簡単でも楽ちんでもないようです。じじ臭い言い方ですが、若者よ旅に出よ!本を読め!で、何もあわてて世間並みの真っ当な人間にならなくてもいいのにと思いますが、体から「悩んでます。」という雰囲気を漂わせて、「お父さん、なんか仕事ないやろか・・」とジワジワと迫られますので、ついと言うか、うかつと言うか、同業の先輩に息子の相談をしたところ、面倒を見ていただけることになった次第で、子は子で、親の知らぬところでちゃんと生きて行ってくれることを何よりも親の幸せと思っているわたしとしては不覚の事態ではありますが、わたし自身の人生を顧みても、あっちへよたよた、こっちへよたよたしながらも人の情けにさずかりながら何とか生きてきたわけですし、《僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る・・》と書いた高村光太郎だって、実際は父光雲の多大な庇護を受けていたのですから、こうなった以上、この程度のことは人生の柵(しがらみ)とあきらめるしかありません。そんなことで、東京出張の夜は、「お父さん、ちっとも絵に興味が持てんわ」などと話をする息子と酒を呑む機会が多くなりました。

さて、今回は目白の『永青文庫』です。ここはわたしの好きな美術館の一つです。この美術館にはこれまで2回来ています。ちょうど白隠の展覧会をやっていたので、4月と展示替えのあった5月の2回、二ヶ月続けて行ってきました。JR目白駅から歩いて15分程。駅を出てすぐ目の前の目白通りを左方向にひたすら歩きます。すぐに学習院大学の西門があり、暫く歩くと田中角栄の目白邸があります。最初にここを歩いたときは、たぶん田中真紀子さんが外務大臣のときで、門の横には電話ボックスのようなものが置かれて警備の警官が立っていましたが、今は取り除かれて門は固く閉ざされれています。思えば田中角栄がここから検察に連行されたのが昭和51年(1976)、わたしが15歳のときで、人生の最も多感なときに、この人に象徴されるような日本の政治や政治家や社会を見せられたわけで、それが、わたしが一度たりとも選挙に行かない一つの遠因かもしれません・・、話をそらさずにさらにもう少し歩いて、目白通りから右へ路地に入ると、和敬塾という大学のような外観をした学生寮があります。作家の村上春樹も居たことがあり、彼の小説『ノルウェイの森』にも登場します。その和敬塾のすぐ先、雑木林に囲まれるようにして古ぼけた洋館が建っています。それが『永青文庫』です。門を入るとこの空間だけが時間が止まっているように感じます。静かで草の匂いがします。見上げるとあたりを覆った樹木の枝葉はきらきらと輝いて、日を遮るその隙間から挿す光がやわらかな落ち葉の道を所々明るく照らしています。わたしは暫し立ち止まり、森鴎外や夏目漱石の小説のなかに自分が迷い込んだような錯覚に陶然とします。このあたりは、江戸時代から戦後にかけて広大な肥後細川の屋敷があったところです。東京は、長く日本の歴史の中心にあって膨張と変貌を遂げてきました。今読んでいる坪内祐三さんの「靖国」(新潮文庫)にこう書かれています。

《東京の歴史を語る概説書によれば、江戸時代(十七世紀半ば)には、東京の西北に位置する台地に武家屋敷が並び、東南の低地には多く町人が住んでいた。この明確な住み分けが山の手・下町の二分割だった。この台地(山の手)と低地(下町)の境界は、今でも注意深く見れば、東京中のいたる所で目にすることが出来るのだが、もっとリアリティーを持って体感で出来るのは、靖国通りを、神田須田町方向から神保町を抜け、九段下に至り、九段坂を見上げた時である。その時私たちの背後には下町があり、九段坂の向こうには、もちろん坂下から窺い知ることは出来ないけれど、緑多い山の手の町並みが広がる。九段坂下から飯田橋方面に向かう目白通りはかっての山の手と下町の境界線でもある》 

山の手と下町という、江戸時代から続いた東京の特色ある趣が戦後急速に消滅していくなかで、この『永青文庫』の一空間だけは、ぽっかりと時代から取り残されたように今もその面影をとどめ、わたしを過去へと誘わせてくれます。

『永青文庫』は肥後熊本細川家に伝来する歴史資料や美術品等の文化財を管理保存・研究するために、16代細川護立によって昭和25年に設立されたと『永青文庫』の公式ホームページ書かれています。『永青文庫』の所有する国内有数の白隠コレクションは、この護立によって近代に入って蒐集されたものです。


わたしがここに来るのは、白隠を見るという理由よりも、この場所が、日々のもろもろの煩わしさから、ひとときの休息を感じさせてくれるからであったとしても、やはり美術館マンスリーですから、少しは白隠についても書かなくてはいけないと思うのです。しかし、白隠の生涯をなぞって、「臨済宗中興の祖」、「近世最大の禅僧」、「今、日本に伝わる臨済禅の法系はすべて白隠下に連なる」、「近世禅画の巨人」、そんな紋切り型の文言を並べるだけのつまらないものしか書くことができないのなら、折角の白隠がもったいない。どうせ書くなら、ぐちゃぐちゃの文章であっても、多少でも自分の血肉にしてから書きたい。まあ、すべては言い訳ですが、要するに、今のわたしでは、それだけの力が無いということです。そこで、今回はプロローグのプロローグとして、思いついたことを書いてお茶を濁すことにします。ここの白隠はこれまでに何度か見ています。それでも、また見に来ようと思うのです。平成16年に京都文化博物館で白隠の大展覧会がありました。多くの白隠を見ることは、それは勉強の機会になるでしょう。それにくらべて、ここはもともとが美術館(永青文庫の建物は旧細川公爵家の家政所(事務所)として昭和初期に建てられたもの)ではないのですから、スペースも狭く、多くの白隠を見ることはできません。このごろ、つまらない弱音かもしれませんが、仕事上の動機や見方で「もの」を見ていても何も見えないのではないか、本当に「もの」の魅力にふれられないのではないか、という気がするのです。こうして、ここに来て白隠を見ようということに理屈を付けるのはやめて、一点の白隠、一点の自分の心に迫ってくる白隠の前に立てばよいのではないか。白隠はそこにあるのに、これまで、自分が白隠の前に立っていなかったのではないのか。そんことを今は考えています。そんなことを言いながら、すぐに仕事の話に戻って仕舞うのが商売人の哀しさですが、わたしが、書画屋のなかの書画屋と仰ぐ京都のM堂のMさんに、白隠というのは実際どういう人が買うのですかと尋ねると、「外人だ」と言われるのです。白隠の晩年の優品と言われるような作品であれば千万はゆうにするわけです。今、そんなお金を出せるのは外人だと。さらに、なぜ外人が白隠を買うのですかと尋ねると、「外人は白隠の禅画や書からパワーのようなものをもらうらしんや」というお話。「パワーのようなものをもらう」ということ、笑ってしまいそうですが、いいえ、そうではなく、わたしにはそういうものを感じられる、「もの」を見る素直さ、あるいは直感のようなものが欠けているのではないか。そんことを今は考えています。

いずれにしても、今はどうやって自分なりに白隠に迫るのか、五里霧中の状態ですが、やはり、白隠を宗教の側から捉えなければならないような気がします。白隠は達磨の絵に、「直指人心、見性成仏」と多く記しました。「見性」とは何か、白隠は42歳の秋、禅の厳しい修行の先、「法華経」を読誦中に、コオロギのなく声をきいて豁然として大悟したと言います。また、近代の禅者久松真一は、自らの「見性体験」として、最も厳しい座禅の修行、臘八大摂心によって、自らを絶体絶命の死地に追い込み、自身を覆った黒漫漫の一大疑団は忽然として内より瓦解解氷消し、未だかつて経験したことのない大歓喜地を得たと語っています。白隠を買い求める外人の、白隠から受けた「パワー」とは何でしょうか。白隠の画く豁然として見開いた達磨の「眼」、それは江戸時代の貧しい人々、読み書きも出来ず、ただひたすら働くことで生涯を全うするような人々に何を感じさせたのでしょうか。また、それも白隠の「パワー」と言えるのか。そこにこそ、白隠の白隠たるものがあり、禅アートの本質が隠されているのではないか。そんなことを今は考えています。

今月の20日は、靖国神社へ行ってきます。次回美術館マンスリーは、靖国神社遊就館です。久しぶりに積極的な気分で書けそうな気がします。白隠については、いつかまた再チャレンジします。

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2006年12月05日

ソウル国立中央博物館

前回は、〈私は骨董品の世界にとんと不案内で、書画屋である以上全くわからないでは 体裁が悪い〉と書きましたが、「書画」も「骨董」の内ではないのか、同じ美術の世界ではないのかという声が聞こえてきそうなので、そこら辺りの話をちょっと書いてみます。

私の仕事を一括りで「美術」と言うと一番広い概念のような気もします。しかし、わたしのまわりの方々を見渡しますと「美術」などとはよっぽど縁遠いと思われるようなお顔の方が多く、それは偏見としても「書画」の世界でポピュラーなもの、例えば「勝海舟」の書とか「福沢諭吉」の書とか「白隠」の達磨の絵とか、こういうものが美術かというとちょっと違和感を感じます。明治の洋画家小山正太郎は「書ハ美術ナラズ」と題するつまらない論文を書きましたが、その論旨に私が同調したのではなく、もともと「美術」なる言葉は明治になってからの造語であり多分に西洋美術を意識した言葉ですから、西洋のartをイメージした「美術」で東洋の「書」とか「画」を括ってしまうのは無理があると思うのです。ではもっと広く「芸術」というのはどうかといいますと、「芸術」という言葉もまた、西洋のartをイメージして明治に作られた造語であり、そこには「美術」以上に西洋人の人間中心の尊大さを感じてしまいます。まして、最近のへたくそなミュージシャンを「アーチスト」などと呼ぶのと同じで、私も自分の仕事を、「芸術にたずさわる仕事です。」なんて恥ずかしくていえたものではありません。そこで結局何がよいのかといいますと、やはり「書画骨董」というのが一番適当ではないかと思うのですが、私の場合はさらに、「骨董」と「書画」をチューインガムを引き延ばすがごとく敢えて「書画」にこだわって、屋号の能書きにも「書画専門」と付け、尚かつ「画廊」などと申す次第で、そんなことにどうしてこだわるのかと思われるかもしれませんが、「書画」と「骨董」はどうも肌合いが違う、どこか根本が違うように思うのです。「骨董」という言葉を辞書で引くと〈美術的な価値や希少価値のある古美術品や古道具類〉などと「書画」も「骨董」に含まれるように説明されていますが、「骨董」というのは、主に日用の道具として生まれたものに美的価値あるいは精神的価値を与えたもので、「書画」というのは日用の道具とは対極にあって心や精神や思想の表現として生まれたものです。そこには両者の本質に関わる明らかな相違があるのではないかと思うのです。さて、以上は、〈私は骨董品の世界にとんと不案内で、〈書画屋である以上全くわからないでは体裁が悪い〉ことの言い訳にはならない話でしたが、柳宗悦風に理屈を言えば、私が「書画」にごだわり、「書画」を深めたいと思うのは、「美の浄土」は一つであるがそこに至る道は二つあるということで、つまり私には、両方の道を歩む器用さも器量もないので、ともかく「書画」の道から登ってみようということであります。先輩諸氏の〈お前、本当に書画やか?〉と訝る声が聞こえてこようと、「書画」を専門に扱う業界で言う「書画屋」ということで、ともかく頑張っているつもりでおります。さて、焦っても一流の書画屋への道は遠く険しい。京都に山添天香堂という書画屋さんがあります。ご主人山添さんは、私のような下々にも優しく接してくださる魅力たっぷりの方です。この方の今は亡きお父さん、私はキャリアが浅いのでそのお姿は存じ上げないのですが、その方が昭和49年、「天香堂百撰展」という展観を京都の美術倶楽部で催され、その時の展観図録を、実は哲学者の久松真一さんの蔵書のなかにあって偶然手に取ったのですが、そこに記された山添さんのお父さんの書かれた挨拶文がなかなか渋いものなのでちょと紹介させていただきます

「天香堂」と申す店が、京都に始めて看板をかかげてから、今年は七十年目になりました。 最初は菊屋橋のそばであつたと聞かされています。菊屋橋とは、今はその名が無くなつて居ますが、今の美術クラブの近くの東大路と古門前通の角のあたりであつたようです。
この店を御存じなのは福島俊翁先生、父と同輩の、同業三条の西村さん、八坂の光明さん、その他二三の方々ぐらいになりました。勿論明治の終わりのころで、大正の九年に生まれた私の知らぬ事です。
 大正の元年に、四条通の石段下南側に、一軒借家が空いたのを、私の母が探して来て 、高い家賃に逡巡する父の尻をたたいて、無理に開いたのが、昭和二十年の春強制疎開でつぶされるまで、三十五年続いた「祇園の天香堂」です。
 このギオンの天香堂に思い出の多かつた方々のおかげで、今のナワテの天香堂が存在 しているのですが、昭和二十二年に私がビルマから復員して来た時、「天香堂」はその看板だけを持つて、大津追分の疎開先に逼塞していました。
 三十数年の実績も、一等地での立派な店も、一朝にして無に帰さしめた大きな力の前に、既に年老いた父母は無力でありました。

 二十三年に今の店を、何とかすがろどころとして、天香堂の看板をかかげてから二十五年が経ちました。この間、父を十六年前、母を十二年前に失ないましたが、妻や弟の協力で今までの店をつづけて来て今年でどうやら創業七十年を迎えました。

 仮の店舗と思つた店を、いまだに大きくも出来ず、父が作つた大店天香堂を、ちいさい形で守りつづけて、今年が七十年です。

 大正元年十二月一日が四条通の天香堂の開店で、その日は恐ろしいほど売れたと母の 自慢話によく聞かされました。それから大正の好景気が来て ─  そんな頃に私が生まれて ─ その為に私が五十四になった今もなお、お調子もののふわふわの甚六であるのですが、その事は閑話休題といたします。

 ここ九年の間に六回ほど屏風展をつづけて、昨年で大きな展観はピリオドを打つつもりでいましたが、今年あたりは七十周年になるであろう事が念願にありました上、たまたま父の十七回忌、母の十三回忌がめぐつて来ましたので、その二つを記念して、このたびの展観となりました。
 
「天香堂百撰展」というのは、天香堂が撰んだ百幅の軸の展観という意味であつて、 百点の逸品、銘品、一流品という訳ではありません。この中には一流作家でない人々の作品も多く含まれています。大体書画の世界で一流作家というのには、市場価値が一流という意味も多分にありますが、私は、市場価値なるものにあまり信を置きません。  
 だから市価二流の作家の一級品も数点入れました。実のところ、これこそが私のささやかな自慢です。
 名作を御覧に入れたいと思う心が、必然的に大幅巨幅の多い理由にもなりました。小手先の器用さで出来上がつた、いうところの床うつりのよい掛けものなどというものに、私は一向に魅力を感じません。
 ですから「鈍」なものばかりお目にかける結果になつたかも知れませんが、それが天香堂のお客様に喜んでいただけると信じて、これら百点の軸を並べました。

 番外として、巻子・冊子・額、それぞれ十余点に新到の屏風二十余点をお目にかけます。また前回屏風展をお見逃しの方々の為に、前回出品中の二十数双も併せて御覧に供します。申し上げた通り、父母追善の思いも込めておりますので、前回御覧の方々には何卒お見過ごしを願いたいと存じます。

 なを、特別室として、石山寺縁起巻の断片額装展室と、秦テルヲについては、いづれ、「秦テルヲの世界」と名付けて独立した展観をするつもりで居りますが、この機会に皆様のお眼休めとも存じ、架蔵の小額十数点を並べました。日本画壇の青木繁ともいうべきこの作家の片鱗でも御覧に入れる事が出来れば幸いです。
 今一つの催しとして、関西古書画会の面々による関古会協賛出品室を設けています。友店七氏が天香堂の七十周年を祝って自慢のものそれぞれ両三点出して呉れる予定です。これらはそべて私方の「百撰」を上廻る銘品にちがいありません。どうか併せてお楽しみ下さい。

 今回は屏風展とちがい、一般を対照とせず、天香堂と何らかの関係ある方と、父母御存じよりの方々とに限りましたが勿論御同伴御紹介は喜んでお迎え致します。
 深秋好期、さだめしお事多いことと存じますが、まげて御曳杖賜わらば、幸これに過ぎるものはございません。
        
                             昭和四十九年十一月   天香堂 山添 治



いかがですか、一級の書画屋さんの書画への想い、商売への姿勢、その心意気というか、誠実さがひしひし伝わってきますでしょう。

さて今回の美術館マンスリーは、ちょっと羽ばたいてソウルの「国立中央博物館」です。実は前回の「柳宗悦」が私のこころに眠っていた韓国・朝鮮への憧憬を呼び覚ましてくれたのです。思い返せば私が韓国・朝鮮という国を、その人たちを、ある特殊な印象を持ってこころの奥に刻んだのは16歳の時だったと思います。私より二つ年下で12歳で自殺した岡真史の詩集『僕は12歳』を読み、その存在と死に衝撃を受け、彼の死んだ時自分は何を考えていたのだろうかと自問しました。彼の父は在日朝鮮人でした。そして私は高校を卒業して直ぐ、前妻と二人で韓国へ旅行をしました。鈍行列車を乗り継ぎ二日がかりで下関まで行き、そこから関釜フェリーで釜山へ向かいました。その時は朴正煕大統領が暗殺された直後で、戒厳令のさなか首都ソウルのあちこちに土嚢が盛られて兵士が機関銃を持って警戒していました。岐阜を発つ前は韓国なんて若い子が行っても面白くないとか、今行くと殴られるぞとか言われましたが、所々白く凍てついた韓国の大河洛東江や、平坦な地形に広がった田んぼ、家々から立ちのぼる煙など、見飽きることなく、釜山からソウルへ向かう列車から行き過ぎる景色を眺めました。真冬の韓国の寒さは厳しく、ソウルの街ではカチカチになった雪の残骸が道路にへばりついていましたが、大田の近くで泊まった安宿のオンドルの暖かさと宿のおばさんが用意してくれた辛くて美味しい韓国の家庭料理の味は今でも懐かしく思い出します。そして22歳の時には、韓国で古本屋をやれないかとポンコツ車に古本を満載して岐阜からソウルを往復しました。韓国・朝鮮語もハングルが読める程度ですが2年ほど勉強しましたし、我が家では毎年女房がキムチを漬けます。私は二十代の頃、強烈にトレンドは東アジアだと思っていましたし、柳宗悦にも負けない韓国・朝鮮への想いを抱いていたつもりですが、最近はちょっと焦点が鈍っていました。そのことを柳宗悦を読んで自覚しました。大袈裟な言い方になりますが、自分の進むべき方向がやっと見定まったように感じています。これからは韓国・朝鮮、その次に中国、そこからぐるりと回って日本です。そんな気持ちに多少興奮して久しぶりに韓国に行ってきました。

今回の韓国旅行は私と表具の工房長の中西さんの中年二人旅です。絶対にゲイに見られるだろうと思いながら海外初体験の中西さんが迷子にならないように随分気を遣いました。旅程は、釜山から入国し釜山から出国するという、移動時間を除くと正味3.5日ほどの旅。簡単に説明しますと、名古屋から夕方釜山の金海空港に着き、その日は外国人専用のKRパス(韓国国鉄全線・全列車乗り放題)を入手して終わり。翌日、早朝から高速バスに乗って新羅(シルラ)千年の都慶州(キョンジュ)へ。柳宗悦が「不朽の美」「不滅の力」と感動した韓国の至宝中の至宝、石窟庵の石仏と仏国寺を見学。その日は夜、釜山に戻って、そのまま韓国最大の魚市場チャガルチ市場へ。私が19歳で立った初めての外国の地がこの釜山、そしてこの同じチャガルチ市場で眼にした光景、足の膝から下が無く、地を這いずりながらリヤカーを引っ張る人、頭巾で顔をすっぽり隠した子供の乞食、それから25年経ってもここの喧噪と熱気はそのときと変わりません。市場で刺身三昧の夕食を済ませ次の日はソウルへ向かいました。昼過ぎにソウル駅に着き、そのまま地下鉄で国立中央博物館へ。その次の日は国立民俗博物館と景福宮。翌日はまた釜山まで戻ってそのまま金海空港へ。どうですか、修学旅行のような真面目な弥次喜多道中ではありませんか。

さて本題、ソウルの「国立中央博物館」です。この博物館の設立からの変遷は複雑で、私の説明に間違いがあるかもしれませんがそのルーツは1908年に開館した昌慶宮(チャンギョングン)の朝鮮皇室博物館から始まり、その後、日本の侵略によって朝鮮総督府博物館となり1945年の朝鮮解放で中央博物館となりますが、収蔵品は朝鮮戦争により釜山、慶州などに避難。1953年の休戦後、徳寿宮(トクスグン)に移転し、1972年には景福宮(キョンボックン)の旧総督府に移転しましたが、1996年の旧総督府の撤去にともない、旧総督府の隣りに位置する博物館社会教育館を増改築して移転されました。そして昨年の10月、長い流転の歴史に終止符を打つ新たな国立中央博物館がソウルの中心から南方、南山と漢江に挟まれた竜山(ヨンサン)の地に、敷地約9万2千坪、建物、地下1階、地上6階、延べ面積4万1469坪、展示品1万3千点を誇る世界有数の巨大博物館として開館しました。相方の中西さんとは二時間後に1階中央奥にある1348年につくられた国宝「敬天寺十層石塔」の前で待ち合わせることにして、私はどうしても関心は絵画中心となりますので、他は全体をざざっと見て、二階にある「書芸室」「絵画室」「仏教絵画室」で大半の時間を過ごしました。その中で是非見ておきたかったのが「謙斎」(キョムジェ)こと「鄭?」(チョンソン1676−1759)です。南宋画と北宋画をミックスさせたような独創的な真景山水画で韓国・朝鮮絵画の最も重要な画家に位置づけられます。今から5、6年前でしたか京都の交換会(業者によるオークション)で、韓国、朝鮮、中国絵画のオーソリティーといわれるお方がいきなり強烈な槍(ヤリ・競りの一声のこと)を飛ばして買い落された本紙の大きさが色紙大ほどの掛け軸、もちろんそれが真筆であるかどうかは私にはわかりませんが、その後も含めて唯一眼にした「鄭?」でした。朝鮮の山河を描いた〈金剛山正陽寺図〉、〈洗劒亭図〉など、とにかくこれが 「ケンサイ」(日本では日本語読みしか通用しないので)かと、京都や東京の交換会では、私のような専門外の貧乏人ではまず買い落とせないでしょうが、岐阜や名古屋あたりならなんとかなるでしょうから、その時のために眼の奥に焼き付けておきました。次に印象に残ったのは、「鄭」と並び朝鮮時代を代表する画家、「安堅」(アンギョン1418−?)の唯一の真筆とされる「夢遊桃源図」の複製画です。ここに複製でありながら展示されているのは、この「夢遊桃源図」がいかに韓国絵画史上重要な作品であるかを表しています。この有名な「夢遊桃源図」の実物は日本の天理大学付属天理図書館にあります。美術品は正当に入手したものであれば誰が所有してもよいことになっていますが、この作品の実物がもしここにあれば、日本にあるよりも遙かに多くの人がこの作品の魅力にこころを打たれるだろうと思いました。宗教というものは人間の幸せのために、その目的のためにのみ存在するのですから、韓国の人たちにプレゼントしてあげたらよいのにな〜と、そうでなければ売って差し上げてもよいのにな〜と思いました。このほかにも朝鮮時代後期を代表する風俗画家「檀園」(ダンウォン)こと「金弘道」(キムホンド1745−?)、朝鮮の書聖と呼ばれる「秋史」(チュサ)こと「金正喜」(キムジョンヒ1786−1856 )の名筆など、商売向けの勉強には大物過ぎますが、ともかく初心者ですから朝鮮の絵画や書の全体の香りのようなものを感じて来ただけでも意味があったと思っています。次回はもう少し基礎勉強をしてこの冬の休みに行く予定です。その時は韓国の田舎へ、全羅南道(チョルラナムド)か江原道(カンウオンド)へも足を伸ばそうかと思っています。

最後に、

今、日本は韓流ブームでついこの前まで差別や偏見が普通の日本人のこころのなかに、また社会に根強くはびこっていたことなど忘れてしまったかのようです。私は、国家を背負ったようなものの言い方はしたくないし、過去の日本人がしてきたことを自分の罪として受け止める気持ちもありません。しかし、私のじいさんの子供の頃、関東大震災で日本人が朝鮮人をにしたことを、35年間も日本人が朝鮮を蹂躙(じゅうりん)し、多くの人を殺し、言葉を奪い、名前を奪い、財産を奪い、何十万という朝鮮人を日本に無理矢理連れてきたことを、また、私が中学生の時、私の頬(ほお)をいきなりビンタしてきた《チョンコウ》と呼ばれていた悪ガキ、「私は日本人とは結婚できない」といっていた在日朝鮮人の同級生の女の子、そして、私より二つ年下で、12歳でマンションの屋上から投身自殺した岡真史、私がこれまで生きてきて、実際に見たり聞いたり感じたり学んだ私にとっての韓国、朝鮮を、私はやはり日本人として、忘れることなく、こころの中に抱えていかなければならないと思っています。その上で、日本人であるとか韓国人であるとか朝鮮人であるということでなく、一人の人間として、国家とか民族を超えて信頼し尊敬しあえるような人間の関係を、社会をつくらなければならない。そのためにこそ、お互いの深い関わりの歴史を知り、風土を知り、そして何よりもお互いの誇るべき文化を知り、その文化を育んだお互いの先人の豊かな心に触れ、その知恵に学ばなければならないと、切に願うのであります。
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2006年11月20日

日本民藝館と柳宗悦

今年の六月初めにある美術商の方から一冊の本を勧められました。『愉快な骨董』という尾久彰三さんの本です。恥ずかしい話しですが私は骨董品の世界にとんと不案内で、書画屋である以上全くわからないでは体裁が悪いのですが、書画だけでも手一杯、勉強しなければならないことが四方八方にあると言い訳をして、今でもそうですがどちらかと言うと見て見ぬふりをしてきたのです。しかし書画に通じた人は骨董の世界にも通じると考えるのが自然でしょう。ともかくそんな反省と後悔する気持が相まってその『愉快な骨董』を読んでみる気になりました。この本は日本民藝館にお勤めの著者が、お金の工面や奥さんの冷ややかな視線に堪え忍びながら、丹波の徳利、根来塗りの琵琶、李朝の石像、備前の甕など、〈骨董〉ではなく、著者に代わって〈民芸〉と呼びますが、民芸品蒐集の悲喜こもごもを爽やかに、時にはしっとりと著者の温かな目指しを通して綴ったもので、文章の向こうに著者の生きる姿と民芸への深い思いが垣間見え、単なる骨董道楽の本ではなく民芸入門の良書として、また生活の物語として楽しく読ませて頂きました。さて尾久彰三さんによって、〈民芸の美〉に導かれましたので、今回の美術館マンスリーは、柳宗悦というか日本民藝館ということになりました。

6月20日、火曜日のうららかな初夏の一日。日本民藝館へは渋谷から京王井ノ頭線に乗って二駅目、駒場東大前駅から歩きます。駅を出てすぐ東大駒場講堂を正面に見て行き交う学生の顔を観察しながら左に折れて暫く歩くと閑静な住宅街。近くに広大な加賀前田の屋敷跡だという駒場公園があってどこか過ぎ去った歴史の哀愁も感じさせるこの辺り、柳宗悦がこの地に居を構える昭和の初めはのどかな田園風景が広がっていたのでしょうか。退屈することなく駅から10分も歩くと柳宗悦が設計したという白壁の木造二階建て大正のお役所っぽい雰囲気の日本民藝館に。もう少し早く来られれば修復復元された館の向にある柳宗悦邸も見ることができたのですが、その日は公開終了後ということで残念ながら柳邸には入ることはできず、それでも、この日は『柳宗悦の蒐集』日本民藝館創設70周年記念特別展ということで、入り口で靴を脱ぎ、千円の入場料を払い、一階から二階へとひんやりとした板張りの床を歩きながら、元々は日用品、雑記として用いられた日本各地の民窯で焼かれた瓶や壺や皿や漆工品、イギリスのスリップウエアと呼ばれる古陶磁、李朝の陶磁や民画、アイヌの着物や東北の刺子やこぎんなど、柳宗悦の美意識を通して蒐集された民芸品の数々を見ることができました。先月の28日にNHKの日曜美術館で、尾久彰三さんを案内人に「柳宗悦の家~初公開!美の思索の拠点」が放送されたのでその影響もあるのでしょう。館内は平日に関わらず、多くは女性の来館者でにぎわっていました。

ついでに書き置きますと、この日、日本民藝館を後にして近くの駒場公園の一郭にある「日本近代文学館」に立ち寄り「恋歌の現在」という企画展を見ました。大正生まれの歌人から昭和生まれまでの歌人を百人選んで、その直筆による「恋歌」と、それについての自らの注釈を並べていました。知らない名前が多いのですが、現在の詩歌の世界では著名な方々なのかと思います。一人一人そのお顔と歌、その自注をお年寄りの方から三十歳位の方まで順番に丁寧に追っていくと結構引き込まれて日本民藝館より長く留まっていました。ここでの感想を書き始めると長くなってしまいますので、興味のある方は「恋歌の現在」(角川書店)に詳しいので読んでみてください。

さて尾久彰三さんの本を読み、民芸に導かれて日本民藝館に行ったのはいいですが、どうも関心は〈もの〉より人の方に、柳宗悦という人に向いてしまいます。もちろん日本民藝館の究極の目的は柳宗悦の仏教美学の布教にあるのですから私のように多少でも柳宗悦を知ろうというものが現れることは柳宗悦も尾久彰三さんにとっても喜ばしいことでしょう。しかし、柳宗悦を「知る」にはどうしたらよいのか、「知る」とはどういうことか。私の小画廊で久松真一の展覧会をしている時ある東洋哲学の先生が言っていました。私が「久松真一を学ぶのに、どの本が一番いいですか」と尋ねると、「どの本を読んでも一緒です。どこを切っても同じ事が書いてある。哲学とはそういうものです。」と。「哲学とは、そういうもの」と言われても・・、哲学は、論理ではないということか、精神で感じるということなのか。ともかく、いくつかの主要論文は読んでみたのですがそれからはや四ヶ月も経ってしまいました。早く書き終わって次から次へと回を重ねていきたいのですが、今回は特に相手が哲学者であったのが誤算でした。画家であれば先ず絵を見て感じればいいわけですが、哲学者は読まないことには始まらないわけです。別に立派な論文を書くのではないし、それがこの美術館マンスリーの目的でもないのですが、それでも何か一つくらい自分の言葉で感じたことをストレートに語りたいと思うのです。そこでつい、ああでもない、こうでもないと考えが巡って、ここ二週間、論文は読み返したり相当根詰めて考えてなんとか無難に考えを纏めようと頑張ってはみたのですが・・・、やはりどうもしっくりこないというか、尾久彰三さんには申し訳ないのですが、読めば読むほど違和感の方が大きくなってしまいました。

《彼らはかかる恵みに支えられて、働きまた働く。多くは貧しき人々であるから、安息すべき日さえも与えられておらぬ。多くまた早く作らずば、一家を支えることができぬ。働きは衆生に課せられた宿命である。だからそこには、何か温かき意味が匿されていまいか。正しき者は運命に甘んじて忙しく日を送る。働きを怠る者は、いつか天然の怒りを受ける。課せられた日々の働き、このことがまたどんなに彼らの作を美しきものにさせたであろう。否、彼らの作に美を約束することなくして、神は彼らに労働を命じはしないのである。彼らの一生に仕組まれた摂理は、終わりまで不思議である。》(工藝の美)

私はよくわからないのです。柳宗悦は名をなした芸術家による美、天才による美ではなく、名も無き工人、貧しき民衆によって作られ、またそれらの人々が普段、日常の中で使い続けたもの、長く雑器として蔑まれ「下手物」と呼ばれてきたもの、それを民芸と呼び、そこに〈美の基準〉と〈工芸の正しき姿〉を見いだす。初期の茶人たち、利休や珠光らが見いだした美の極致はすべて名も無き工人、貧しき民衆によって作られた日用の雑器であったことを根拠とし、正しき工芸は限られた個人、限られた天才の手の内にあるのではなく、名も無き工人、貧しき民衆の手の内にこそあるべきだという。そういうことをさんざん語る柳宗悦は私は正しいと思う。しかしそれがどうして名も無き工人、貧しき民衆の幸せと結びつくのか。〈正しき工芸〉に潤う世界がどうして〈美の浄土〉へと結ばれるのか。そもそも〈美の浄土〉とは何なのか。柳宗悦は名も無き工人、貧しき民衆が作り出した工芸を〈野に咲く花〉と言った。野に咲く花は野にあってこそ美しいのではないか。柳宗悦は工芸は廉価でなくてはならぬと言う。日本民藝館の壁にあげガラスの向こうにあれば高嶺の花になるではないか。私は死んだ母親の墓に手を合わせたこともない極悪深重な凡夫ですから、《美の浄土》も、彼ら凡夫たちの清廉な心の内も想像すらできないのかもしれません。しかし《彼らの一生に仕組まれた摂理は、終わりまで不思議である。》とは、どうしようもなく違和感を感じてしまうのです。私は柳宗悦の言葉を追うほどに〈野に咲く花〉が遠く霞んでいくように感じるのです。

しかし柳宗悦という人の仏教美学というものは、〈弥陀の救いを信じることによって絶望から救われる〉という他力宗の教えを根底にしているのですから、あくまでも、彼らの一生は凡夫としての一生であり、凡夫には自ら立ち上がる力はないのです。ただ弥陀の救いを信じることで救われるのであり、《・・終わりまで不思議である。》とは、その弥陀の力は実に不思議であると言っているだけなのです。他力宗、特に浄土真宗では、どんな苦しい生活でも、ただ南無阿弥陀仏ととなえ、弥陀に感謝し、弥陀の寄り添い、不満も言わず、嫌な顔もせず、毎日毎日を精一杯生きる人を「妙好人」と言い、理想の人間像のように言うそうですが、私には実感として理解できないのです。「妙好人」は実際にいるでしょう。しかしそれは限られた一種の天才ではないですか。私は「妙好人」などに到底なれないし、そうなりたいとも思わない。あ掻いても掻いて生きている人の方が、はるかに人間らしく、いとおしいと思うのですから、柳宗悦に近づけないと思うのもしょうがないことかもしれません。

私は柳宗悦のような、海軍少将の父親を持ち、学習院初等科から中等科、高等科へと進み、この間、後の『白樺』の主要メンバー、上級生の志賀直哉、武者小路実篤、木下利玄、里見クらと出会い、明治四十三年(1910)の創刊の『白樺』に同人として参加し、同年、東京帝国大学文科大学哲学科に進み、その頃から西洋の芸術に関心を持ち、ハインリッヒ・フォーゲラー、ロダン、ホイットマン、ウイリアム・ブレイクに関する論文を『白樺』に発表し・・、というような上等な人生を送ってはいないので、かなりひがみ根性が入っているのだと思います。しかしやはり、高いところから見下ろしては名も無き工人、貧しき民衆の本当の悩みや苦しみを汲み取ることはできないのではないでしょうか。白隠や親鸞や空海のような宗教者は、名も無き工人、貧しき民衆に身を寄せて、それ以上の艱難辛苦を体験し、初めて彼らに何かを語ることができたのではないのですか。私は柳宗悦が単なる仏教学者であるのなら何の魅力も感じない。況や一個の宗教者でなければ、柳宗悦の言葉に何の真実も力も持ち得ないと思うのです。

だらだらと私の駄文を連ねても意味がありませんので、最後に大正八年、日本統治下の朝鮮で起こった「三・一独立運動」に関連し読売新聞に掲載された「朝鮮を想ふ」と題する柳宗悦の一文を尾久彰三さんの本からここに紹介することにします。ここに書かれていることは、正しく、尊く、また価値のあるものです。しかしそこからどうするのかが一番問題で、困難なことです。臨済禅で言うなら、「大疑の下に大悟あり」です。それは、私たちの生きる現在においても私たちの社会に突きつけられたままの社会の大きな悩みの源であると思います。

《自分は朝鮮に就いて充分な予備知識を持っているわけではない。僅かに所有する根拠があれば、それは凡そ一ヶ月の間朝鮮の各地を巡歴した事と、旅立つ前二三の朝鮮史を繙いた事と、予てからその国の藝術に厚い欽暮の情を持っている此の三つの事実だけである。併し是等は僅かな根柢に過ぎぬかも知れぬが、今もだし難い情が余に此一篇を書かせたのである。余は以前から朝鮮に対する余の心を披瀝したい希いがあったが、今度不幸な出来事に就いて少なからず心を引かされている。特に日本の識者が如何なる態度で、如何なる考を述べるかを注意深く見守っていた。併しその結果朝鮮に就いて経験有り知識ある人々の思想が殆ど何等の賢さもなく深みもなく又温かみもないのを知って、余は朝鮮人の為に涙ぐんだ。余は前にも云ったように朝鮮に就いて何等の学識ある者ではないが、幸いに余はその藝術に現れた朝鮮人の心の要求を味わう事によって、充分な情愛を所有する一人であるのを感じている。余は屡々想うのであるが、或国の者が他国を理解する最も深い道は、科学や政治上の知識ではなく、宗教や藝術的な内面の理解であると思う。云い換えれば経済や法律の知識が吾々を他の国の心へ導くのではなくて、純な情愛に基づく理解が最も深くその国を内より味わしめるのであると考えている、余は日本に於ての小泉八雲(Laffcadio Hearn)の場合の如きをその適例であると思っている。恐らく今迄ハーン程日本を内面から味い得た人は無いであろう(略)》

《吾々とその隣人との間に永遠の平和を求めようとなれば、吾々の心を愛に浄め同情に温めるよりほかに道はない。併し日本は不幸にも刀を加え罵りを与えた。之が果して相互の理解を生み、協力を果し、結合を全くするであろうか。否、朝鮮の全民が骨身に感じる所は限りない怨恨である、反抗である、憎悪である。分離である。独立が彼らの理想となるのは必然な結果であろう。彼等が日本を愛し得ないこそ自然であって、敬い得るこそ例外である。人は愛の前に従順であるが、抑圧に対しては頑強である。日本は何れの道によって隣人に近づこうとするのであろう。平和がその希望であるなら、何の穉愚を重ねて圧力の道を擇ぶのであろう。 金銭や政治に於て心は心に触れる事は出来ぬ。只愛のみが此悦びをあたえるのである。植民地の平和は政策が産むのではない。愛が相互の理解を産むのである。此力を越える軍力も政権もあらぬ。政治ではなく宗教である。智ではなく情である。只ひとり宗教的若しくは藝術的理解のみが人の心の内より味い、味われたものに無限の愛を起すのである。日本は朝鮮を治めようとして軍人を送り政治家を送った。併し友情や平和の真意を知っているのは宗教家であり藝術家である。余は習慣が国債の問題をひとり政治家にのみ委ねるのを奇異な幼稚な態度であると思う。余は古いソクラテスやプラトーンの如き又は孔子、老子の如き人々が真に一国の治平、万国の平和を語り得る人々であると確く信じている。朝鮮の人々よ、余は御身等に就いて何の知識もなく経験もない一人である。又今迄御身等の間に一人の知人をすら持っていないのである。併し余は御身等の故国の藝術を愛し、人情を愛し、その歴史が嘗めた淋しい経験に盡きない同情を持つ一人である。又御身等がその藝術によって長い間何を求め何を訴えたかを心に聞いている。余は余の心にそれを想う毎に淋しさを感じ、湧きくる愛を御身等に贈らずにはいられない。 朝鮮の人々よ、よし余の国の識者の凡てが御身等を苦しめることがあっても、彼等の中に此の一文を草した者のいる事を知ってほしい。否や、余のみならず、余の愛する凡ての知友は同じ愛情を御身等に感じている事を知ってほしい。かくて吾々の国が正しい人道を踏んでいないと云う明らかな反省が吾々の間にある事を知ってほしい。余は此短い一文によって、少しでも御身等に対する余の情を披瀝し得るなら浅からぬ喜びである。》

尾久彰三さんは、この、柳宗悦の一文に寄せて以下のように語っています。

《ここではさらりと、節目の年を記念して、私の愛する李朝の焼きものを紹介して終わろうと思ったが、朝鮮とその芸術についての、柳のいくつかの論稿を読んでいるうちに、その美しさをわれわれに知らせてくれた彼の仕事が、那辺から生まれているかを記すことこそ肝要かと思われてきて、長い引用をすることになってしまったわけである。柳の朝鮮に関する仕事は、『柳宗悦全集・第六巻』に納められているので、興味を持たれた方は是非読んで欲しい。それらを読んでいただければ、ものの美を愛することが、人類愛のことにまで高められることもわかっていただけると思う。柳宗悦が、ものの美しさを愛することによって、ものから様々な真理の言葉を聞き得たように、われわれも、真理を受け取るだけの愛をもって、ものに接したいと考える。そうでなければ、ものの美しさのことなど、つまらぬことではないか、と言っても過言ではないように思うのでる。》

私も《そうでなければ、金儲けなど、つまらぬことではないか》と、尾久彰三さんの言葉を肝に銘じて、《そうでなければ》がどういうことで、《真理の言葉》とは何なのか、今後の課題として、柳宗悦でも尾久彰三さんでもなく、私には《愛》は似合わないので、批判精神を失わず、主体性を持って考えていきたいと思っております。
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2006年05月06日

川合玉堂「玉堂美術館」

ホリエモンが塀の外に出てきました。

世を変えようと志すものは、より良い方向にですよ、一度くらいはぶち込まれたほうがいいのです。彼にそんな志しがあると言っているのではないですが、それにしても否認したら保釈が許可されないなんておかしな話です。それ自体、検察に有利な自白を強要しますよ。だいたい無罪の可能性のある人間を、検察が何ヶ月も拘留することがおかしいのです。私はそもそも、検察や裁判所が国民のためにあるなんて寝ぼけたことを思ってはいませんので、要するにそれが権力というものですから、そんなことをグダグダ言っても面白くありませんが、ともかく、ホリエモンには最後の最後まで、「俺の何が悪い」と突っ張っていてほしいものです。話が横にそれたついでに、私は46歳の若さで逝ってしまった小説家、中上健二が大好きです。もう日本には彼ほど、人間や社会の裏側を凝視できる作家はいないでしょう。平成元年か2年だったか、永山則夫の日本文芸家協会入会の是非について、江藤淳と対論したNHKの番組が印象に残っていますのでその話を少々。

永山則夫は、昭和24年(1949)網走番外地で生まれ、極貧で荒んだ家庭に育ち、集団就職で上京後19歳のときに4人を射殺し、平成9年、東京拘置所内において処刑されますが、その長い拘留のなかで、『無知の涙』、『木橋』、『人民をわすれたカナリアたち』など、幾多の文学作品を発表した永山則夫の日本文芸家協会入会申請が拒否され、江藤淳は、拒否した側の立場で、中上健二は、認めるべきだという立場での討論でした。その前に、永山則夫の生い立ちについて少し書き記しておきます。

永山則夫の父は博打打ちで、家庭を全く顧みず、母が行商で7人の子供たちを養っていましたが、ついに生活は破綻し、母は、姉(14歳)と二人の兄(12歳と9歳)と則夫(5歳)の4人の子供を置き去りにし、下の3人の子どもだけを連れて、青森県の実家に逃げ帰えります。幼い兄弟4人は、極寒の網走に捨てられたのです。7ヶ月後、4人は福祉事務所の手によって保護され、再び、母の元に送られますが、待っていたのは乞食同然の生活でした。ボロボロの服を着た永山則夫は、まわりから差別され、苛められ、仲間はずれにされます。それでも、新聞配達をしながら、かろうじて中学を卒業し、上京して東京渋谷の果物店に就職します。しかし、それも長続きはせず、転々と職を変え、ついに、昭和43年(1968)10月11日、最初の引き金を引くのです。

さて話を戻します。中上健二は、永山則夫の文学とは、永山則夫の全人生、殺人を犯したということも含めて、その「生」「身体」全体によって産み落とされたものであって、そこに文学としての輝きがあるのなら、その輝きを文学として認められなければ、我々は文学者として立つ資格がないではないか。という憤怒の主張であったと思います。淡々とした江藤淳の話しぶりとは対照的に、一言一言詰まりながらも、体全体から絞り出すように発するその言葉は、自分の弟をかばうような優しさに満ちあふれたものでした。この議論のなかで江藤淳は、永山則夫の文学を認めることと、殺人者永山則夫の日本文芸家協会の入会を認めることは別の問題だというところで、そこから踏み込むことがなく、議論が終始かみ合わなかったように記憶しています。そもそも文芸作家協会のような組織は、もともと一般社会に帰属したものだという、江藤淳らしい、極めて常識的な見識のように一見思えますが、しかし私は、江藤淳にはその意志のなかに、「殺人者」である永山則夫をまず罰する姿勢があたのではないか、そしてその罰し方が永山則夫の入会を拒否することだったのではないかと感じたのです。私は江藤淳の『妻と私』を読み、この作家が好きになり、この作家が情愛に満ちた人であることを知りました。しかし、この時の江藤淳の永山則夫についての態度は、江藤淳の文学者としての本質を決定的に露出させているのではないかと思いました。私は文学とか絵画の価値というものは、道徳だとか社会のルールだとか、裁判所の判断する善悪とは違うところで、人間や社会の真実に迫ることであるし、本当に弱いもの、本当に不憫なものの側に立たなければ、どこにその値打ちがあるのかと思います。況や人を罰することが文学の使命ではないはずです。さて話がおおいに脱線しましたが、ホリエモンに話を戻しましょう。私は永山則夫になぞらえて、ホリエモンに同情をしたいのではありません。永山則夫の背負ってきた運命の重たさ、暗さ、悲しさにくらべれば、ホリエモンはあまりに軽く、ゴムフーセンを蹴飛ばすようなものです。しかし時代は過ぎて、永山則夫が処刑されるその前年に、オン・ザ・エッヂという会社を設立し、「額に汗して働くやつはバカ」「人の心はお金で買える」と放言し、一躍、時代の旗手のようにもてはやされたホリエモンの姿は、なんであれ、戦後の日本人が死にものぐるいで追い求めてきたものの、なれの果ての、わたしたち一人一人の現像にほかならないということを、中上健次の文学を理解することなど到底無理な、想像力の貧しい、世間の連中に言ってやりたかったということです。さて本題へ入るとします。

年が明け、もう桜も散ってしまったのに11月の(11月分の)美術館マンスリーを今書いております。この頃は体の調子が悪く、美術館に行って何か新しいものを吸収しょうかというような積極的に気分になれず、かと言って、ホテルの中で読書をするような気にもなれず、何をするにも消極的な気分でしたが、こんなときは空気のいいところにでも行ってみるかと、久しぶりに青梅の玉堂美術館に行くことにしました。新宿駅から電車に乗って、乗り換え時間も入れると2時間弱の道のりです。日曜日ということもあって、トレッキングシューズを履いた奥多摩方面に向かうお客さんで車内は多少混雑していましたが、東京の地下鉄のいつもの暗くくすんだ車内の雰囲気とは違って、明るい光が差し込む車内はどこか華やいで、都会で暮らす人のささやかな息抜きかなと勝手な同情をしながら、私自身もこうやって、都会とは反対方向に向かう同じ電車に乗っているのです。ちょっとした小旅行の気分になって気持ちよく電車に揺られ、青梅駅からさらに青梅線で20分ほどの御嶽駅でおります。この辺りは甲州へと続く青梅街道の古くからの小さな宿場で、両際を急峻な山で囲まれて、今でも竈の煙が立ち上るような山里のなつかしいのどかな風景がひろがっています。ちょうど昼時で、近くにある観光客に有名なそばやに入って、田舎そばで美味しいと思ったことはありませんが、山菜そばをいただてから、駅の目の前を流れる多摩川に掛かる御嶽橋を渡り、山の瀬を川縁に下りたところに建つ玉堂美術館に向かいました。


私は以前に、村上華岳より川合玉堂のほうが数倍偉いと書いたのですが、これは恥ずかしながら、私が今日まで生きてきて、やっと辿り着いた境地、人生観からくるものです。こんなふうに言うと、お前は聖者か隠士かと馬鹿にされるでしょうが、やっと私も、玉堂の心持ちが、御嶽の自然のようにしみじみと心にしみいるようになったのです。玉堂の世界がわからぬ人は、心が歪んで貧しいのだと反省してください。村上華岳とくらべてどうかは別にして、玉堂の素晴らしさは、村上華岳の名前も知らない普通のじいさんやばあさんが、玉堂の絵の前に立てば、誰もがこころが和らいで、やさしい気持ちになる、言葉にならない感動を受けるということです。玉堂の絵画は、そういう、普通の人のこころ、普通に真面目に一生を生きる人たちのこころをつかむ力を持つのです。ここで少し玉堂の生涯に触れておきましょう。川合玉堂(本名芳三郎)は明治6年(1873)、愛知県葉栗郡外割田村(木曽川町)に父勘七、母かな女の長男として生まれ、8歳の時に一家で岐阜市米屋町へ移住し両親は筆墨紙を商います。米屋町は長良川の南、岐阜の中心地からほど近く、見上げれば金華山岐阜城があり、わが長良川画廊からは直線距離で200メートル弱のところです。玉堂はここに、17歳で京都へ出るまでの少年期を暮らします。玉堂は、幼い頃から画家になる夢を持ちましたが、父勘七はそれをこころよく思っていなかったようです。しかし子供とは思えぬ上手な絵は、近所では評判だったといい、まわりの大人たちの、「この子はきっと将来立派な絵かきになる」という声に後押しされ、父勘七は、画家を目指すことを許します。14歳で尋常小学校を卒業すると、年に4、5回、郷里との間を往復し京都の望月玉泉に学び、明治23年、17歳で、第3回内国勧業博覧会に出品した「春渓群猿図」、「秋景群鹿図」が褒状を受け、それを契機に、いよいよ本格的な画家の修業をするために京都に出て、当時四条派を代表する画家、幸野楳嶺に入門します。その後は、明治29年、23歳で上京し、橋本雅邦門下となり、画家としての歩みを着実に進めるわけです。私は、玉堂芸術の一面、それは本質かもしれませんが、非常に厳しいもの、非常に冷たいもの、非常に悲しいものを作品の向こうに感じます。だからこそ、穏やかな線や色彩を描けるのではないか。玉堂は明治24年、18歳のときに、濃尾大震災によって、父勘七を失います。岐阜の家財を引き払い、母を京都に引き取って親子二人の暮らし始めますが、翌々年には、母かな女も急性肺炎によって失います。望月玉泉の門を叩く玉堂14歳のとき、病弱な父はすでに62歳の老齢でした。一人息子であった玉堂は、父母の愛情を一身に受けて幼年時代を過ごし、生活も安定しない、普通の人とは違う人生を歩むことを認めてくれた両親に対し、それ以上の愛情と感謝の気持ちを抱いていたでしょう。その両親を相次いで亡くしたとき、玉堂は、その悲しみのなかで、生きていくことの孤独と無常さを、自らこころの奥底に深く刻んだのだろうと思います。そして、それによって悲しみにくれるのではなく、鬼のような厳しさを自分に向けて、画業に邁進していく決意をしたのだと思います。玉堂芸術の持つ厳しさと暖かさは、この時の体験無くしては語ることはできないとわたしは思います。

私が玉堂美術館に来るのはこれで3回目です。最初は今から15年位昔でしょうか、玉堂の作品を二幅持って鑑定をお願いに行きました。確か一幅は真筆、もう一幅は偽物だったと思います。私はここにくると、玉堂の作品としてはそれほどの名品は収蔵されていませんが、日頃扱うことのできる水準の作品が並んでいて、絵の全体や落款印章の特徴など、保証なしの交換会でぬからぬように勉強させてもらうのですが、なにより楽しみなのは、玉堂の晩年を写した記録映画が上映されていることです。わずか10分程度だと思いますが、玉堂の運筆の早さ巧みさは、まさに神業のようです。美術館には玉堂15歳の素描が展示されています。私はこの頃の作品を見ると涙が流れる思いがします。唯、唯、絵が好きで、絵をかくと幸せで楽しくて、学校から帰れば、絵ばかり描いていた少年が、唯、好きだけでは通用しない、画家の道を歩み出したころの真剣で誠実な素描。玉堂は、この頃から死ぬまで、写生を通して、日本画の神髄である筆線の習練を積み重ねていくのです。画家にはいろんな画風、生き方があります。村上華岳だって、もちろん、魅力たっぷりの画家です。しかし、玉堂のような画家は、他にいないのです。同時代の日本画の巨匠たち、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月、木村武山らが、伝統を打破して、新しい日本画の創造を目指したのとは全く生き方を異にして、川合玉堂は、日本絵画の伝統のうえに、玉堂にしかない、精神性を湛えた、自らの絵画表現を打ち立てたのです。私は近代日本画、最大の画家は、川合玉堂だと思っています。

先月のことですが、これと言って見たい展覧会がないので、東京国立博物館の常設展を見に行きました。そこに玉堂の六曲一双屏風「渓山四時」がありました。あらためて感動しました。やはり玉堂は凄い。左の片双に春から夏、右の片双に秋から冬の山間の風景が描かれています。なんとおおらかでゆたかで味わい深いのでしょう。時間が流れています、くりかえし、くりかえし、流れるような自然の営みのなかで、人の一生の時間もとけ込んでいるのです。命がとけ込んでいると言ってもいい。

玉堂が誰よりも偉い、凄いと思う私ですが、思想の未熟さ文章力の貧困さ故、言いたいことの半分も言葉にすることができません。ただ最後に言っておきたいことは、ユートピアのような、現実世界とは遊離したような絵画世界がそこにあるのではなく、玉堂の到達した世界、芸術の本体と言ってもいいかもしれません、それが玉堂の絵画の向こうにあって、それが何かは、普通の人が、もちろんわたしも、立ち入ることのできないもの、知る故のないものである、その点において玉堂は理解しやすい画家ではないと申し上げて、今回は終わりにします。
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2005年11月02日

矢橋六郎展

今回の美術館マンスリー、以前にまして間隔が空いてしまいました。またまた言い訳がましいのですが、10月17日の夜、やれやれ今日は忙しかったと和食屋さんでビールを一口飲んだ後、急にフウーと意識が遠のくような気がして、倒れたのではないのですが、気持ちが悪くて、胸がざわめくというか、死が隣にやって来たというか、言葉では表現が難しいのですが、動悸とか目眩でもなく、不安な気持ちと言うのが一番近いのかもしれませんが、そんな状態になって、その日は家に帰って早く横になりましたが、次の日もどうも頭が重いので、脳神経外科でCTとMRIを撮ってもらったところ、脳梗塞ではないのですが、血管が細くなっているということで、一過性脳虚欠発作(TIA)と言って、一時的に脳の血流が悪くなりそういう症状になったのではないかということでした。その後五日ばかり点滴に通院して、この頃は大分良くなったのですが、それ以来、脳梗塞を心配して、自宅から画廊までの行き帰りを片道40分歩き、酒は一日缶ビール1本(350t程度なら飲んだ方が良いそうです。)、食事は、好物の肉は減らして、嫌いな鰯や秋刀魚など魚、野菜中心。急に年寄りになったような生活を送っています。自分では、一過性脳虚欠発作(TIA)ではなく、ストレスによる緊張性頭痛か鬱病のような神経の疾患ではないかなとも思うのですが、どちらにしても心身共健康であることがなによりです。金儲けは褒められてもしれてます。「金がない、儲からん」とあくせくせず、久松真一の「人類の誓い」の一節にあるように、「各自の使命に従ってそのもちまえを生かし」、日々の生活をこつこつと積みかさねていくことでしょう。さて、そんなわけで、少々頭が重いですが、この「美術館マンスリー」も続けていかなければなりません。

今回は、郷土の洋画家「矢橋六郎」です。

「矢橋六郎」の名は、地元ではそれなりに知られていますが、知られていると言っても、矢橋六郎の価値を本当にわかっている人がどれだけいるのやら、私は多種多彩に、郷土の画家を誰よりも多く商っていますが、矢橋六郎を買おうという人の少ないこと。岐阜はつくづく田舎です。特に矢橋六郎の生地大垣はもっと田舎だなー。この画家はお洒落な絵しか描きませんから、田舎もんではわからんのです。矢橋六郎は、山口薫と比べても、森芳雄と比べても、決して引けを取りません。長良川画廊なら、そんないい画家の油彩画が、20万円以下で買えるのです。「何でこういうまともな作家が売れないの?」というのは矢橋六郎だけではありませんが、特に矢橋六郎は、私自身が好きですから、力説したくなってしまいます。

矢橋六郎は、明治38年(1905)岐阜県不破郡赤坂町(現大垣市)に、県下屈指の素封家一族で、矢橋大理石商店を創業した矢橋亮吉の第六子として生まれます。大垣市の西方に、化石の宝庫としても有名な金生山という山があり、現在も矢橋一族企業によって、石灰岩の採掘が行われています。父の亮吉は、この金生山で産出される大理石を中心に、石材の加工と販売を始めました。この父の始めた事業を長男の太郎がさらに発展させるのですが、後々、この家業との問題が、画家としての矢橋六郎にとって、ある「柵(しがらみ)」となっていきます。さて、それはさておき、超素封家の子息として何不自由無く育った矢橋六郎は、大正14年(1925)東京美術学校西洋学科に入学します。同級には山口薫がいて、在学中からともに批評会「春秋会」を毎月開催したり、川島理一郎の金曜会に参加します。昭和5年(1930)同学を卒業し、その年の7月に渡欧。山口薫、村井正誠とも合流し、ユトリロ、キスリング、ブラマンク、シャガール、モディリアーニなど、エコール・ド・パリと呼ばれる個性豊かな画家たちから大きな刺激を受けて、昭和8年(1933)山口薫とともに帰国します。昭和9年(1934)長谷川三郎、大津田正豊、津田正周、村井正誠、山口薫、シャルル・ユーグらと「新時代洋画展」を結成。昭和12年(1937)「新時代洋画展」のメンバー、村井正誠、長谷川三郎、山口薫、大津田正豊、津田正周、瑛九、浜口陽三らと「自由美術協会」の創立に参加。(会友に難波田龍起、小野里利信ら14名、顧問に今泉篤男ら13名の評論家。) 昭和25年(1950)「自由美術協会」の意見対立により、村井正誠、山口薫、中村真、荒井龍男、植木茂、小松義男、朝妻治郎とともに同会を脱会し、同年、同メンバーとともに「モダンアート協会」の創立に参加します。その後、後述しますが、多くの「大理石モザイク壁画」を制作し、家業の矢橋大理石商店の要職に就きながらも、昭和34年(1959)武蔵野美術大学講師、昭和37年(1962)東京芸術大学講師を歴任し、昭和63年(1988)82歳で死去します。矢橋六郎は、日本近代洋画の革新に重要な役割を果たす、「新時代洋画展」「自由美術協会」「モダンアート協会」の中心メンバーとして活躍し、生涯の友人である山口薫、村井正誠らとともに「モダンアートの旗手」の名に相応しい画家でありました。

この展覧会は、年代順に作品が並べられ、生誕100年記念に相応しい内容になっています。また今回は油彩画の仕事ともう一つ、モザイク壁画についても写真パネルを使って紹介がなされています。彼は油彩作家であると同時に、日本の「大理石モザイク壁画」の第一人者でした。矢橋六郎が原画から制作したものとして、昭和37年(1962)大名古屋ビル《海》(現存)、昭和38年(1963)日比谷日生ビルフロアー(現存)、昭和39年(1964)名古屋駅《日月と東海の四季》(現存せず)、昭和40年(1965)岐阜県庁《春・夏・秋・冬》(現存)、東京交通会館《緑の散歩》(現存)、昭和41年(1966)自民党本部《実りの朝》(現存)、中日ビル《空の饗宴》(現存)、昭和43年(1968)大垣市民会館《花の如くに》(現存)、大垣商工会議所《流水》(現存)、中野区役所《武蔵野に想う》(現存)、昭和44年(1969)静岡県立文化センター《天地創造》などがあり、全国80ヶ所以上の壁や床にモザイク壁画を制作しています。

矢橋六郎は、昭和25年(1950)「モダンアート協会」の創立の後、故郷大垣に戻ります。戦後まもない復興期のなかで、昭和21年(1946)矢橋大理石商店の創業者で父の亮吉が亡くなり、矢橋大理石商店を継いだ兄次雄を手助けするために、家業の矢橋大理石商店の仕事に軸足を移さざるを得なかったようです。そして、家業の一部としての、大理石壁画の制作に新たな表現の場を広げていくことになるのですが、『幾千万年の自然の力を経て出来た、これ等石材の持つ色彩は深みのあること、混じり気の全く無い事、又どの色を配列しても決して反発し合わない事、絶対に退色しない事等、絵具とは全然特異の性格を持っている。ローマ人はモザイクを永遠の絵画と称しているのも、うなずけると思う。』(矢橋六郎モザイク作品集・求龍堂)という、古代ギリシャの遺跡や壁画に触れたヨーロッパでの体験を得て、『私は子供の時から石の中に育ってきた。』(矢橋六郎モザイク作品集・求龍堂)という矢橋六郎にとって、それは芸術家としての一方向であると同時に、また、画家としての挫折の始まりであったようにも思えます。私は、矢橋六郎は、いい画家であると思いますし、いい画家として間違った評価がされなければそれで不満はありません。その上で敢えて言うのですが、矢橋六郎の芸術は、もう一つテクニックを超えていく何かが足りないように感じるのです。それは山口薫でも同じではないかと思います。幸か不幸か、彼らは、ピカソから約20年遅れて生まれてきて、ピカソやマチスになれるとは思わなかったし、なろうとも思わなかった。身体をすり減らし、ドロドロになってまで、日本のアバンギャルドになろうとは思わなかったし、己の生の証を打ち立てようとも思わなかった。彼らは、頭が良かったのか、意気地がなかったのかは知りませんが、「絵描き」などという、とうに店仕舞いしたほうがいい商売をなんとかやりくりして続けていく道は、結局、具象表現のなかにしか見いだせないと考えたのではないか、そして結果、彼らとしては「モダン」であるしかなかった。

私の自宅アパート、食堂兼居間の白い壁面、そこが我が家の絵を掛ける一等地で、そこに今掛けてあるのが、矢橋六郎の花の絵です。その絵は見る側に何かを語りかけてくるのではなく、ただ静かに美しくそこにあるように感じます。

ただそこにあるように描くこと―
それが矢橋六郎のモダニズムであるのかもしれません。


矢橋六郎



 


さて、最後にご案内です。来年の1月13日から3月12日まで岐阜県美術館で「日本近代洋画への道 ― 山岡コレクションを中心として」が開催されます。できれば、それに併せて矢橋六郎の絵画も含めて「岐阜県の洋画家」というテーマで展覧会を企画できたらと考えております。



生誕100年記念 矢橋六郎展 ― 悠々なる色彩 ―

平成17年10月15日-11月13日

大垣市スイトピアセンター・アートギャラリー

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2005年08月20日

難波田龍起

今月は衆議院選挙があって自民党が大勝しましたが、この先日本がどうなるのか、私にはわかりません。日本がどうなるかより、私がどうなるかです。前回の岡本太郎から、突然の「ウートレ」ですから、それも、一階の長良川画廊を二階に引っ越して、一階を「ウートレ」にしょうというのです。天井をぶっ壊して、コンクリートを剥き出しにして、一応、コンテンポラリーな雰囲気に大改装・・。家賃が23万円、工事費にどれだけかかるやら。このところ、期待より不安の方が大きくなってきました。「ウートレ」で何をやるのか、現代で何をやるのかです。果たして現代に売れるだけの価値のあるものがあるのでしょうか。ヤマガタやラッセンや千住博など死んでも売りたくないし。一番の問題は、この十余年、現代の美術に全く興味が無かったということです。郷土の閨秀、江馬細香や張氏紅蘭の方が現代の女性より遙かに強く、自由で、魅力的だし、浦上玉堂や大雅や白隠の方が、よっぽどアートでしょう。これは疑いのない真実ですが、しかし、ここからが岡本太郎なんです。仮に、現代というものが、現代のアートも、我々の価値観も、自民党を大勝させたその政治状況も、どうしようもなく浅はかなものであったとしても、その今を、その現在を、それは歴史のほんの一瞬の生命であっても、そのまっただ中に私たちは生きているのです。ホリエモンの故郷のお父さんが話していました。「親として、してあげられることは、病気になったときに薬を買ってやることくらいだ。しかし、何もかも失って一文無しになったら、その時はここへ戻ってきなさい。」と、私はその話を聞いて、このお父さんは偉い、だからその子供も偉いに違いないと思って、ホリエモンを応援しているのですが、我々の生きているこの現代がホリエモンであり、それを見捨てずに、愛おしく抱きしめてやるのも、ホリエモン自身であり、ホリエモンのお父さんであり、我々だということです。まあ、こんな具合に、自分でああだこうだと考えつつも、最後は、なんとかなるでしょうと開き直るしかありません。プロ野球選手のヒーローインタビュウーと同じく、「応援よろしくお願いします。」です。さて、そんな私のオリエンテーションの一環として、今回は東京オペラシティアートギャラリーの「生誕100年記念 難波田龍起展 その人と芸術」です。もともと、東京オペラシティアートギャラリーには難波田龍起のコレクションがあって、それに書簡等資料を補充して企画されたもので、特別展というより、常設展かなという気もしますが、私自身、難波田龍起を見るのは初めての体験なので、そう最初からケチを付けずに話を進めることにしましょう。

難波田龍起は、1905(明治38)年、北海道旭川に、父憲欽、母ゑいの次男として生まれますが、1歳を待たず、一家は、上京。1923(大正12)年、早稲田第一高等学院に入学します。この頃から文学、哲学、宗教に関心を寄せるようになり、近隣にアトリエを構えていた高村光太郎を自作の詩を携えてしばしば訪ねるようになります。1927(昭和2)年、光太郎に誘われて、上野の東京府美術館で開かれていた「仏蘭西西洋美術展」に行き、そこで、ゴッホの「鰊」に大きな衝撃を受け、「芸術家の仕事に生きたい。」と決意。1928(昭和3)年、光太郎の紹介により、川島理一郎が主宰する金曜会に参加し、画家への道を歩み始めます。1929(昭和4)年、川島理一郎、梅原龍三郎らが創立した国画会に初入選。川島理一郎の影響を大きく受け、武蔵野の風景や、ギリシャ彫刻、日本の観音像などをモチーフにした具象画を描きます。戦後は、抽象傾向へと展開し、1997(平成8)年に92歳で亡くなるまで、一貫して抽象表現の可能性を探求し、清冽で、深い精神性をたたえた、独自の画境に到達しました・・・。

この展覧会では、初期の具象作品から、抽象期前半の代表作《ファンタージ赤》、難波田独自の抽象表現へと向かう《海神の詩》《哲学の杜A》から、最後の到達点とも言うべき《生の記録3》など主要作品の他、陶芸作品、スケッチ、父、憲欽の臨終の書(この書が会場の中で、一番存在感がありました。)、青年時代の日記や詩作、高村光太郎から送られた書簡などが展示され、芸術家、難波田龍起のすべてが、ここにあると言っても過言ではないのですが、こういう一作家の回顧展というのは、結局、この人は「どうなんや」ということを全体として問うわけです。《自己の内面との絶えざる対話を通じて紡ぎ出された作品には、深く透徹した精神性とひとりの人間のひたむきな人生の軌跡が形象化されています。》《抑制のきいた清澄な画面に高い精神性が漂う独特な心象風景の傑作が次々に生み出されていく》(展覧会カタログから)ここに引用した文章は、難波田龍起展に寄せる解説文ですが、その内容の妥当性はともかく、こういうのは批評にはなっていません。単なる紹介文、悪く言えば「ちょうちん」です。話は脱線しますが、手元に、「呉昌石・王一亭・斉白石 三大巨匠展(昭和49年、三越本店)」の展覧会カタログがあります。その序文を谷川徹三が書いていて、面白いのでここに紹介しておきます。

呉昌石、王一亭、斉白石という三人のうち、戦前日本人によく知られていたのは、呉、王の二家である。しかし私はこの二家の画にはさして親しまなかった。それに反して白石老人は、昭和14年北京に一ヶ月ほど滞在した際、友人からこの画家のことを聞き、かつその作品の幾つかを示されて感心したことがある。その友人は老人と親交もあり、私は色紙を一枚貰った。昭和一八年、武者小路さんと北京に行った際には、誰かに招ばれて老人と同席したこともある。武者小路さんはその頃すでに彼の刻なる無車という印を使っていた。戦前この人の声名の上がるにつれて、日本でもその作品の展観が幾度かなされた。私の見た限りでは、今は亡い須磨弥吉郎のコレクションに、秀れたものも、珍しいものも多かったと記憶している。今度の展観の作品でも、私の好みはやはり白石老人に傾く。しかし率直に言って、石涛や八大山人や金冬心のように、からだをふるえさせるようなものはない。考えて見れば、それは無理な注文で、そんなものが、そう無闇にあっては、たまらない。

さて、話をもとに戻して、難波田龍起は凄いのか、凄くないのか。難波田は、戦後、モンドリアンみたいなクレーみたいな絵から始まって、ポロックに行って、それから《海神の詩》《哲学の杜A》《生の記録3》に行き着くわけですから、その時代において、アンフォルメルとか、抽象表現主義とか言われる、現代美術の世界的な潮流のなかで、自己表現の可能性を追った画家です。先ず、問われるのは、ポロックやデュビュッフェやデュシャンに「どうや!」と向こうを張れるだけの仕事をしたのかどうか。そこまで言わなくても、日本の現代美術のなかで、どれだけの画家なんやということです。私のような素人が、ましてや、現代美術にこの十余年、全く興味がなかったのですから、そう簡単に偉そうに、わかったようなことを言うなと思いつつも、今は、今の時点で感じたこと、考えたことを言って、後に、その間違いに気付いたら、反省を込めて、また書くと。それが、この美術館マンスリーのスタイルです。前置きが長いですが、そんなことで、今回の展覧会を見た雑感を少々。

私は、抽象表現であっても、具象表現であっても、レディ・メイドであっても、あるいは良寛や、山岡鉄舟の書であっても、「ある均衡」というものが必ずあって、はじめて作品として成立していると思うのです。アンフォルメルにしても、シュプレマティズムにしても、どんなに足掻いたところで、必ず、作品の内部に、または、作品と作品の外部に境界は生まれるのですから、そこに、均衡か、あるいは緊張感が生じると思うのです。私は、結局、作品の質の差異はそこから生まれと思いますので、私の絵画を見る意識は、その均衡が発する何かを感じ取ることに集中します。難波田の絵画を見ると、どうも、その均衡の取り方が、鈍くさいというか、イマイチというか・・。難波田の場合、天性の「不器用」さがあって、それが、作品の暖かさ、穏やかさに繋がっているように感じます。私の好みか偏見かもしれませんが、現代美術をやるのなら、しゃっきとした緊張感、厳しさを絵に感じさせて欲しいのです。《生命の戦慄のないものは芸術でない、断じてない。芸術の創造には生命の戦慄 ― 感動が伴うものである。これは若き日より私の内に生きている高村光太郎の言葉である》と難波田は語っていますが、私は、難波田の絵画には、「生命」は感じますが、その向こうにある、「生命の戦慄」までは、どうなんでしょうか? 私の感度の低さ故かも知れませんが、どうも不十分な印象を受けました。ポロックとの差も、そこらへんにあるように私は思うのです・・。

お口直しに、秋の一句を。

ぬけがらにならびて死(ぬ)る秋のせみ 内藤丈草


生誕100年記念 難波田龍起展 その人と芸術
平成17年7月15日ー9月25日  東京オペラシティアートギャラリー
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2005年07月10日

岡本太郎

先月は、東京出張中の20日が唯一の休日でした。生憎、月曜日に重なってしまい、ご承知のように月曜日は日本中の99パーセントの美術館は休日で、どこか開いてるところはないかと調べたところ、東京近郊では唯一、青山の「岡本太郎記念館」が開館していました。それにしてもどうして月曜日に一斉に休まなければならないのでしょう。世間には月曜日が休みだという人も大勢います。パリなら、ルーブルが火曜休館で、オルセーは月曜休館です。せめて東京国立博物館が月曜休館なら、東京国立近代美術館は火曜日にするとか考えてほしいものです。いっそうのこと「月曜美術館」として月曜日だけ開館する美術館を誰かやったらどうでしょう。さて、憤懣は憤懣として、そのお陰で今回のテーマは「岡本太郎」となりました。先ずいつものように言い訳ですが、今、我が画廊にて「飛騨・美濃 郷土の先人遺墨展」を開催中で、多分、会期中に今月の、本当は先月の美術館マンスリーをアップロードできるだろうと思いますが、このところ遺墨展の準備など多忙を極め、毎月一回書くという自己目標を果たせていないことには多少の同情を頂くとして、今回遅れたのはそれだけではなく、私のなかで、ただならぬ「岡本太郎シンドローム」というか「岡本太郎ショック」というか、そんな自分でも意外な精神状況に陥ってしまい、ちょっと真剣に「岡本太郎」研究をしておりました。研究と言っても岡本太郎の著作、岡本太郎について書かれたものを読むというだけですが、次々読みたい本が増えていき、ずるずると日が過ぎてしまいました。まだ読みたい本、読まねばならない本が残っていますし、この今の心理状態から抜け出して、冷静に注意深くもっと真剣に岡本太郎と向き合いたいのですが、そんなことを言っていますとますます書けなくなって、生活にも窮してきますので、意気込みもほどほどにして書き始めることにいたします。

岡本太郎記念館は、元々、岡本一平、かな子、太郎が暮らした場所に建ち、その家は戦争で焼失しましたが、戦後岡本太郎のアトリエ兼住居が建てられ、岡本太郎の死後、岡本太郎のパートナーだった故岡本敏子さんが館長となり、そのまま岡本太郎記念館となって一般公開されています。岡本太郎の友人でル・コルビュジェの愛弟子という建築家坂倉準三の設計による建物とその佇まいは、東京山の手の有名文化人の自宅に共通するスノッブな嫌みを湛えてはいますが、内外ともブロック剥き出しの建築は今見てもお洒落です。一階に居間とその向こうにアトリエがあり、入るとすぐにネクタイを締めた岡本太郎人形が私たちを「何だ、お前は」と迎えてくれます。居間とその外側にシュロやバショウの木の植えられた庭があって、「坐ることを拒否する椅子」やいつものあの顔をした太陽や犬の立体作品が無造作におかれています。アトリエは、ほとんどそのままの状態で保存してあり、描きかけなのか完成しているのかはわかりませんが、何十枚ものカンバスが棚に並んでいるのには驚きました。私が尋ねた日は二階の展示室で「透明なリアル」展と題して若い頃の素描が何点か展示してありましたが、ここは美術館のように多くの作品に触れるための場所ではなく、偉人の生家を訪れるのと同じく、「ここで絵を描いていたんだなあ」とか「ここに座っていたんだなあ」と有り難く感慨に耽るための場所なのでしょう。私はそういうことが苦手で、売店で「芸術と青春」「沖縄文化論」「青春ピカソ」の3冊を買って早々記念館を後にしました。

私と岡本太郎の出会いについて・・

1970年、大阪万博が開かれたとき、私は9歳でした。その時の世間の様子は多くの方がご記憶だろうと思いますが、日本中が万博熱に浮かれたその半年間、私は寂しい気持ちで過ごしていたことを思い出します。私の父親はあの「太陽の塔」のある万博に連れて行ってはくれませんでした。私の父親は五人兄弟の長男として、母親だけの貧乏な家に育ち、当然の成り行きのようにマルクス青年になり、古本屋と私塾をしながら一人だけぽつんと「国民所得倍増計画」から取り残されたような人でしたから、私は子供ながらに行けない理由を悟っていたように思います。 

「痛ましき腕」の思い出・・

私は今でこそ通俗的な価値観の中に身を置く生活をしておりますが、二十前後の頃は画家になることを夢見ていましたので、人並みの画家志望の青年と同じように「ゴッホの手紙」を読み、セザンヌやモディリアーニの真似をしたり、シケイロスやカンディンスキーらの画集を見て感動し、ルオーのような画家になりたいと思っていました。そんな頃、私はどんな偉大な画家の作品より岡本太郎の「痛ましき腕」が好きでした。その絵は私の全青春の悲しみや苦しさや悩みをすべて代弁し、肩代わりしてくれているように思いました。私は本から切り抜いた「痛ましき腕」の印刷画を額に入れ壁にかけていました。

私は翌月の同じ20日、川崎の岡本太郎美術館に行って来ました。当然行かねばならなくなったからです。岡本太郎という人は絵を売らなかったそうです。この美術館は岡本太郎が所有していた1800点近い作品の寄贈を受け平成11年に開館しています。新宿から小田急線に乗って向ヶ丘遊園駅まで行き、そこからはタクシーに乗りましたが、歩いても良かったかなというところで降ろされ、そこからは多摩丘陵の一角に位置するという生田緑地公園内を5分ほど歩き、杉林の木漏れ日の下を過ぎるとその奥の高台に美術館はあります。残念ながら「痛ましき腕」を見ることはできませんでしたが、その他の主要作品はほとんど見ることができました。「夜」「森の掟」「重工業」、どれも初めて見ました。誰もが感じると思いますが、画集でしか見たことのない絵を実際に見たときの何となく気恥ずかしいような喜び。私はこれまで多くの美術館や博物館に行きましたが、これほど楽しく浮き浮きした気持ちになったのは初めてです。奥の方からあの声が響いてきます。はやる気持ちを抑えて順番にゆっくり足を進めると、ディスプレイに青山の自宅でフランス語で芸術論を展開している岡本太郎が映し出されています。別のディスプレイにはピアノを激しく叩く岡本太郎が「芸術は、爆発だ」と叫んでいます。また別の大きなモニターにはメキシコを巡りメキシコについて語る岡本太郎が映し出されています。あっという間に時間が過ぎました。

私は今も岡本太郎の書いた本を、岡本太郎について書かれているものを読んでいます。岡本太郎とは何か、わたしにとって岡本太郎とは何だったのか。「縄文の美」の発見者である岡本太郎。日本の社会、日本の美術状況のすべて、作家に対しても学者に対しても日本のすべての現在に対して痛烈な批判と提言を繰り返した岡本太郎。日本の権威、日本の伝統の崇拝者に対し真っ向から対決し「法隆寺は燃えてけっこう、私が法隆寺なる」と言い放った岡本太郎。ここで岡本太郎の言葉をなぞるのは止めにしましょう。もし、私のこの拙文を読んでくださり、ひょいと興味が起こったら、是非「日本の伝統」「今日の芸術」の二冊を読んでみてください。どちらも今は文庫本で読めます。私はこう思います、私は岡本太郎の「痛ましき腕」が、日本の現代美術の最高傑作であると信じていますが、しかし岡本太郎の芸術などどうでもいい。太陽の塔などぶっ壊してもらってけっこうです。もっと大事なことがあります。思わせぶりですが私は気付いています。ともかく一人一人が自分で考えてみるということです。そして少しでも岡本太郎のように「天真爛漫」に生きられればそれでよいと思います。

さて、最後に私の「岡本太郎宣言」というかご報告です。

当画廊は一応、岐阜市中心部メイン通り沿の3階建ビルの1階を借りて営業をしておりますが、地方都市空洞化の波といいますか、2年ほど前に2階の消費者金融が、半年ほど前に3階の弁護士事務所が退去し現在当画廊のみがこのビルの店子という状態です。そこで思い切ってビルを全部借りることにしました。一階の長良川画廊はそのまま2階に表具工房を移転し、3階をさてどうしようかということで、ちょっと大風呂敷ではありますが、長良川画廊では長良川を上流に遡るごとく歴史を過去へ過去へと追い求めているので、今度は逆に長良川を下流に下るがごとく、現代を、未来を、探求する「場」にしてみようかと。以前にも書きましたが、今という時代を掴んで、閉塞した「今」を打ち破ってその向こうに行ってやろうということです。大変であろうと思います。長良川を遡れば、次第に川は細く美しく大日岳の山深く源流に到達します。伝統に身を寄せることは父の胸に抱かれるごとく幸せなことです。しかし、長良川を下ることは、次第に川は広く濁り、やがて河口に聳える長良川河口堰を魚道でも抜けてその先に出れば、汚れた伊勢湾があり、その向こうには果てしない太平洋が広がっているわけです。それでも「岡本太郎」です。伝統に対して創造。「対極主義」。面白そうではないですか・・。そこで3階は「ナガラガワ・オルタナティブ・スペース」としました。「オルタナティブ・alternative」とは、「代わりの、もう一つの」という意味ですが、展示空間の新しい提言、新しい在り方、作品を展示するだけの空間ではなく、異領域との交流を探る場、簡単に言えば、「多目的空間」。まあ、そんなところです。あまり考えを固定せず、正岡子規の言葉を借りて言うなら、一の報酬で十の仕事をするような人を応援したいと思っております。

岡本太郎記念館
「岡本敏子の60年」展 
平成17年7月9日〜10月3日

川崎市岡本太郎美術館
《明日の神話》完成への道展  
平成17年7月16日〜9月25日
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2005年06月03日

村上華岳展

今月の美術館マンスリーは、「村上華岳」と以前より決めていたのですが、なかなか都合が付かず、最終日の夕方、ちょうど文人会という交換会(オークション)が京都安井の金比羅さんであるので、それが終わってから、雨が鬱陶しく降っておりましたが、会で買った掛け軸を風呂敷に持って、慌ただしく見に行ってきました。会場では若い人の姿が多く、メモを取りながら熱心に見る学生らしき人を何人か見掛けますが、絵を見るのに何故メモなど要るのかと思いつつ、近くに一見して花街の女性とわかるハッとするような美人と東京の某有名画廊のご主人が連れだっておられるのが目に入りました。華岳の精神性についてとか、これは俺が売ったものだとか、話をされていたのでしょう。気に入らないなと思いつつ、ガラス越しに絵を見せるのにはもっと閉口しました。ガラスに自分の姿やら反射してまともに絵が見えやしない。日本という国は何につけても悠々としていません。さて、どうも雑念が多く、その美しい女性が気になってしまう私などには、華岳の真実について、知る故も語る資格もないだろうと思いますが・・・。

この展覧会では、年代順に作品が展示してあり、初期の代表作「二月の頃」、「夜桜之図」から華岳芸術の原点と言うべき国画創作協会時代に描かれた「裸婦図」、そして多くの仏画と山水画、書など、華岳の全貌を覗うことができます。私は前回の曽我蕭白と同じく、今回も気が重い展覧会でした。華岳というとある種流布されたイメージがあって、「好きな画家は、村上華岳です。」といえば、通りがいいというか聞こえがいいというか、そう思っている画廊連中がいるので、私は敢えて「川合玉堂の方が数倍偉い」と公言しておりまして。(もちろん根拠もあって言っているのですが)しかし、作品を前にしては、絶えず虚心であるべきだといつも思っておりますので、今回も兎も角、華岳の旋毛(つむじ)ぐらいは飛び上がって覗いてやろうということです。しかし絵を見るとか文学を読むとか音楽を聞くということは皆同じですが、自分の生きてきた体験、思い、そういう全ての自分で感じるしかないわけですから、私はそれだけの私からしか感じ得ないのです。当然私には感じ得ないものを感じる人もいるということです。ではひとまず村上華岳の生涯を大雑把に概観しておきましょう。

村上華岳の本名は震一。明治21年に大阪市北区松ヶ枝町に武田誠三、たつの長男として生まれます。父の母、池上雪枝は幼少期から才媛と謳われた女性で、明治10年頃に日本で初めての孤児院「修徳院」を創設しています。父の誠三は長男で、朗峰と号し、漢籍の素養のあった人物のようですが、なぜか父誠三の職業や幼年時代の華岳がどのような暮らしぶりであったのか資料を読んでもはっきりしません。《僕はごく小さい時に父母が道ばたで夜店を張っていて、僕は商品の傍らの籠の中へ入れられて、その辺に篝火が燃えていた事をかすかに覚えている。…僕は裏長屋のような所を通ると、ふと、実母がはんてんでも着て味噌こしでも抱えて出て来そうで悲しいのだよ。》 という華岳自身の語った唯一の記録から、零落した暮らしの一面が窺えます。7歳のときにすでに大阪を離れ伯母千鶴子の嫁ぎ先である神戸市花隈の素封家村上五郎兵衛に寄寓し、そこから神戸市立神戸尋常高等学校に入学していますので、このころから子供の無かった村上五郎兵衛夫婦が実質的に華岳の親代わりとなったようです。明治34年、華岳が13歳のとき、父誠三が他界し、明治37年、17歳のときに正式に村上五郎兵衛の養子になります。《私はボロ屋を数軒もっている。‥‥この数軒のボロ屋がからくも私の藝術貞操を保護してくれている。‥‥然らば我が父我が祖父こそ我が藝術の第一保護者である。我が父は決して世間的でなく、種々事業に失敗されたが、質素な生活を送って、これだけを以てお前の藝術を保護せよとて、遺されたものである。私はその遺志からしても、少しは藝術らしい仕事をせねば父に申し訳ないのである》(歳末の期)。華岳は後年、充分な家作の遺産によって、生涯、生活のために絵を描く必要がなかったことについて、このように深い感謝の気持ちを語っているように、養父村上五郎兵衛と養母千鶴子の愛情と理解を得て、京都市美術工芸学校、京都市立絵画専門学校、京都市立絵画専門学校研究科と進学し画家への道を歩み始めます。

大正2年、26歳で京都市立絵画専門学校研究科を卒業した華岳は、大正5年、第10回文展に「阿弥陀」を出品し特選を受賞、横山大観に日本美術院への参加を強く要請されるなど、この頃より新進画家として脚光を浴びています。そして大正7年、土田麦僊、小野竹喬、榊原紫峰、野長瀬晩花とともに、大正期の一大ムーブメントとなる国画創作協会(国展)の結成に参加しますが、大正15年の第5回国展の「松山雲烟」が最後の出品となり、この間、大正10年、34歳のころから、生涯の苦難となる喘息の発作が始まり、大正12年には、喘息の悪化によって京都を離れ兵庫県芦屋に転居します。その後、大正15年に、養父村上五郎兵衛が亡くなり、翌昭和2年、神戸花隈の養家に戻ります。その後は、特定の団体にも属さず、隠棲にも似た生活のなかで、多くの仏画、山水画を制作しますが、ついに昭和14年、11月、喘息により、制作中の牡丹の絵を画室に残したまま、突然この世を去ります。

さてここで、私のつまらない拙文に我慢して頂いているお礼に、大変興味深い作品をご紹介します。私は以前、哲学者であり茶人であり禅者であった久松真一の展覧会を企画しましたが、それ以来の大事な友人であり長良川画廊の良き理解者である現在の「抱石庵」主人久松定昭さんに、村上華岳の話をしたところ、私のところにも村上華岳があると仰るので、それは面白いと早速見せて頂いたものです。



村上華岳1

村上華岳2

村上華岳4

村上華岳3

村上華岳5


無中有路出塵埃 無中に路有り 塵埃を出ず


村上華岳

久松真一は、碧巌録、第四十三則、洞山寒暑廻避にある公案から引用した、「無中有路出塵埃」の言葉を揮毫し、送られた村上華岳の菩薩画に添えて、掛け軸に仕立てました。久松真一の書の上下に紐が付けてあるのは、その上に、別の短冊を入れられるように工夫したものです。「無中有路」は、久松真一の自伝的想い出、「学究生活の想い出」の標題にもなっており、その言葉を選んだことに、久松真一のこの画に対する思いが感じられ、嬉々として、掛け軸に仕立てた様子が想像されます。


この作品は華岳の死後、華岳の妻佳子さんと、長男の村上常一郎さんが、久松真一を訪ねた際のお礼として送られたものです。私が僅かに調べた範囲では、華岳と久松真一の接点は見いだせませんが、このお礼の品が華岳の直筆作品であったということは、華岳が生前において久松真一と何らかの関わりがあったことを示しています。大正7年の国画創作協会の設立と時を同じくして、その機関誌の役割を果たす芸術誌「制作」が創刊され、その執筆者に久松真一の師である西田幾多郎が名を連ねていること、大正9年、華岳は、実際に無一物になることから求道者となった一燈園の西田天香に会いますが、久松真一も西田天香の死に際し追善の一首を献じ、一燈園の経営する燈影舎から「覚の哲学」を始めいくつかの著作を出版していることなど、同じ京都にあって一歳年下の久松真一との出会いは当然の成り行きとして想像できるのではないでしょうか。そして私は「画論」に纏められた華岳の手記から禅の哲学者ともいわれる久松真一との相似に気付きます。少し長くなってしまいますが、私は村上華岳という画家は、禅的な精神、禅的な思想(時には、キリスト教的な、真言的な、儒教的でもあるが)によって、己の芸術家としての態度、在り方を規定した画家と言い切ってしまっても大きな間違いではないと思っています。華岳がどのように宗教的画家であったか、そしてその禅的な部分について両者の言葉を比較することによって、よりはっきりそれが見えてくると思いますので、少し長くなってしまいますがここに書き記したいと思います。

《臨済が、爾一念心上清浄光 爾是屋裏法身仏。爾一念心上無分別光 是爾屋裏報身仏。爾一念心上無差別光 是爾屋裏化身仏。此三種身 是爾即今目前聴法底人。というように、法、報、化の三身仏をも、神話的、超越的なものと見ずして、即今自己の上に現証しようとする。仏の三十二相、八十種好の如きも、禅では文字通りのものではなくして、単に自己の相好の象徴に過ぎない。‥‥禅では、自己の外に別に仏はないのであるから、他に向かって念じ、拝すべき仏はない。‥‥禅では仏像の造作に関心を持たない。これは、天台、真言等の祖師が傑出せる仏師であったにかかわらず、禅の祖師の中に仏師らしき見いだせぬ所以である。禅にとっては、弥陀、大日、諸天等の超越的諸物よりは、羅漢、祖師像等の人間仏がふさわしく、極楽、曼陀羅等の超越世界よりも、清浄身的山色、広長舌的渓声が似合わしい。禅においては、頭大きく、眼小さく、鼻低く、口扁たきままに妙相であり、山聳え、谿深く、鳥啼き、猿飛ぶがままに曼陀羅である。禅月の羅漢、牧谿の山水は禅的仏画ということができる。》(久松真一、聖の否定としての禅)

《私は佛畫を描く作家だからといって、それがため宗教を考えたり、信仰を口にしたりするわけでは決してない。私はよくかういう問を受ける。「佛陀を描く心と、山岳を描く心とは、その感銘に於いてどう違ふか」―これは、私に於いて、甚だ以て平凡すぎた問ひかけであるといふの外はない。私はどちらも同じ事だと言って答へる以外に仕方がない。どちらも作家の魂を研ぎ出すに於いて、結局甲乙はない。等差の置きやうがない。佛陀山水であり、山水菩薩である。‥‥私は菩薩を好んで描く。しかし私は菩薩の形心をどこにも求めていない。古人にさへも求めていない。況んや現代に於いてをや。菩薩は寫生のしやうのない形心である。玄の玄たる形心である。それは黙して自分の佛性に求める以外、どこを捜しやうもないものである。》(村上華岳、佛畫と山水)

《神佛に見捨てられるといふ所まで行け。佛神に世福を願ふべきにあらず。佛神には絶體自己の幸福を祈願するにあらず。世界のこと、山川有情皆消滅して無に歸せむ。無は唯心なりその心即佛也。人は肉身減するも心は在らむ。一心もとより不生不滅なり。》(村上華岳、自戒)

《われわれが自由になるとか解脱するとかいうことは、形のある人間から形のない無相の人間になるということであります。‥‥形のない自己においては生死というようなものは成立しないのでありまして、そういうところを禅では無生死といっております。この無生死ということは、、ただ生死を否定したというだけではなくして、生死のない自己、つまりは生死的な形のない自己ということであります。ですから、禅では、人間に生死がないということを申すのでありまして、これをまた不生不滅とも申しております。‥‥信仰の対象となる仏は、それ故、真の仏ではない。これはちょっと考えると仏教徒として仏を冒涜するという謗りを受けかねない言葉でありますが、禅には「仏を殺す」(殺仏)という言葉がある。それだけではない「祖を殺す」(殺祖)という言葉もあります。仏を殺し、祖を殺し、殺し尽くして初めて安らかなり》(久松真一、茶道における人間形成)

久松は、仏とか神は外にあるもの、超人的なものとしての対象ではなく、自らの内にあるもので、無相のもの形のないものとして自覚されてはじめて、それが本当の仏であるといいます。華岳のいう「神佛に見捨てられるといふ所まで行け。」は、まさに久松のいう「仏を殺す」と同じ意味であり、また華岳は、「私は菩薩を好んで描く。しかし私は菩薩の形心をどこにも求めていない。古人にさへも求めていない。況んや現代に於いてをや。菩薩は寫生のしやうのない形心である。玄の玄たる形心である。」というこれも、久松のいう、「山聳え、谿深く、鳥啼き、猿飛ぶがままに曼陀羅である。」と同じ意味です。つまり、華岳の描く「観音」、あるいは「山水」の本質は、いわゆる仏画ではない。私たちが手を合わせて拝む信仰の対象としての仏画ではない。久松の言葉を借りるなら、「真の浄土が、観音の如き慈母の姿」となって働いたもの、私はそれが華岳の絵画の本質であり価値であると思うのです。

さて、今回の美術館マンスリーは掲載するのが随分遅れてしまいました。必ず一月一回は書くというのが私が自身に課した最低のルールなのですが、何かを書くということは難しいもので、いざ書こうにも考えが纏まらず、考えが纏まらず書いていると長くなって、さらに違う点に気づいたり迷ったりします。松岡正剛という人がホームページ上に「千夜千冊」と題して書評を書いておられますが、(久松真一の「東洋的無」の書評もあります)これを見ると本当に凄い。それにくらべれば私など足下にも及びませんが、素人は素人なりに下手な文章であっても全体の内に一つや二つはある真実を突いている、そういう文章でありたいと思っています。そこでもう少し、村上華岳のためにも書いておきたいことがあります。

芸術家や思想家の体験の問題は、その表現の質において、どのような意味を成し、影響を持つのかは、一概には語れないのかもしれません。私は華岳の心の面影に、幼少期の煤暈けた寂しい記憶がある陰影を与えたことは認めつつも、この時代の少年に比べて、ことさらに不幸なものだとは思いません。少なくとも経済的には非常に恵まれて画家への道を歩んだ人です。また多くの後援者や支持者を得て高い評価を絶えず受けていました。「画論」に納められた手記を読むと感じますが、ある種の女々しさが全体を覆っています。《堕獄の道、依頼画を多くかかぬこと。不正の金を受けぬ事。‥‥あいそをよくするな。‥‥》(斷章)《やれ。名誉慾を捨てよ。‥‥》(何をはすか)こんな当たり前の事が何度も何度も繰り替えされています。久松真一のような、いうなればプロの禅者と対比させれば、その思想の曖昧さ、宗教者としての甘さを感じるのは止む終えないことですが、「華岳の絵は本質的にはやや根性の甘い知識人の愛する芸術なのである・・」(加藤一雄、村上華岳の生涯と芸術)ということを裏返していえば、「華岳の絵は、やや甘い芸術」というこになります。このような評価は華岳信者に対しても、華岳自身に対しても、一つの侮辱であるでしょう。

私は、華岳という人を、描くということに向かわせる根底にあるものは、死への恐怖ではないかと思っています。私は全ての真なる芸術家、あるいは真なる宗教家の根底にあって、その存在を支えるものは死への恐怖だと思いますが、華岳の場合は、30代の前半から「喘息」という絶えず死の恐怖と隣り合わせになる病を抱えていたのですから、それはなおさら切実であり露骨な問題として華岳を苦しめたでしょう。私はそのことが、なにより、華岳の心細さであり、弱音であり、久松のように超然として生きられない第一の要因だろうと感じます。

最後に華岳の名誉のために‥、

《藝術とはなんでせう、私は知りません。私にはこの頃またすっかり解らなくなってしまひました。しかし私にとって畫家であることなどはどうでもいいのです。私は畫家として生まれた譯でもなければ畫家であれと命令されもしません。畫家であるよりも或いは宗教家である前に、何より前に私は人間でありたいと思ひます。全人という言葉がありますがつまりさういう凡てのものが圓満に發達した全き人でありたいと願ひます。‥‥實は私は繪なんかどうだっていい、描けなくてもかまはないと考えます。若し世界の本體を掴むことさへ出来れば、それが一番大切なことです。それがしっかり自分のものとなったら繪が描けなくとも詩が作れなくてもいい、その人はそれで生命の目的を果たし、生活の意味を實現し、そして大きな宇宙の意思と一つに融合することが出来たのですから。私が仏像を描いているのは、そこへ到達する修行にすぎません。》(村上華岳「制作は密室の祈り」から)

学問であっても、芸術であっても、その究極に迫ろうとするものは、それを命がけで求めて止まぬものです。村上華岳はそういう画家であったことを、そういう真の画家であったことを最後に申し上げて「美術館マンスリー5」を終わりにします。


村上華岳展
京都国立近代美術館 平成17年4月12日ー5月22日  

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2005年04月22日

曾我蕭白展

最近「閉塞感」という言葉をよく聞きます。「異質」であるべきだと前回書いたことも私が「閉塞感」を感じているからかもしれません。「閉塞感」というのはこの時代この社会に感じるということです。ではその正体は「何か」ということですが、私はその「何か」というのは、難しいけれど大体見当が付くのではないかと思います。問題は閉塞した「何か」を打ち破ってその先に何があるのかということです。それが一番肝心なところです。それが見えないということが「閉塞感」の根本のように思います。さて今回は話題の「曾我蕭白―無頼という愉悦」展です。実を言うと気が重いのですがともかくそんなところから江戸の異才「蕭白」にアプローチしてみようかなと思います。

蕭白は、享保十五年(1730)に丹波屋を屋号とする商家の次男に生まれ、天明元年(1781)に五十二歳で没します。丹波屋というのは染物屋でかなり大きな商家であったようです。兄を十一歳で、父親を十四歳で、母親を十七歳で亡くしています。画は近江日野の高田敬輔に学んだという説が有力で伊勢や播磨に多く足跡を残し旅絵師のような生活だったようですが、四十歳を過ぎてからは、ほぼ京都に定住したと思われます。先ず蕭白の生きた時代を概観してみます。政治が安定し商業が発展し、町人文化が花開いた元禄期以降、市民社会の台頭と武士階級の権威の低下、度重なる飢饉による財政の悪化による支配体制の動揺によって、その維持強化を図る享保の改革から田沼意次の時代と重なります。質素倹約を奨励し、新田開発や増税によって財政の立直しと社会秩序の引き締めが行われますが、一方で下層階級の生活は疲弊し農民一揆が多発します。蕭白が生まれたのは享保十五年(1730)ですから、江戸時代が始まってから約130年です。幕藩体制の崩壊を予感させながらも天明元年(1781)に蕭白が亡くなってから江戸時代が終わりを告げるまで、まだ87年の時間を要するのです。明治以降、近代化の激変と第二次大戦、戦後の奇跡的復興を経て今日までが137年ですから、 蕭白の生きた時代がどれだけ息苦しく「閉塞感」に満ちた社会であったかは想像に難くありません。蕭白はそういう時代に生きた人です。

さて「蕭白」という画家は本当に「凄い画家」なのか、この展覧会のポスターにあるように「円山応挙が、なんぼのもんぢゃ!」ということなのか、私の気の重いのはそのことです。時代の流行や権威や常識に背き、古くさい道釈人物などを画題にして、異様で人が眉をひそめるのを喜ぶかのようなグロテスクな絵を描き、わざと反抗的に悪ぶって振る舞う。この展覧会を手がけた狩野博幸さんはそういう蕭白の表現意識について、人間の欲情を肯定し、狂者こそ聖人へ至る最短距離の心地であると説く芥川丹邱、服部蘇門ら京都の陽明学左派の儒教思想に影響を受けたのではないかと推論し、蕭白を「狂」の絵画を最も激しく追求した画家であり、その意味において蕭白は、当時の思想状況の先端を行く、同時代の画家たちとは異質な絵画領域を持つ画家であると論究します。確かに、芸術の価値を現在を打ち破ることに依拠させるなら、明治維新へと連なる思想的源流をこの時代の精神風土のなかに見いだし、その一端を蕭白が担ったと位置づけることによって、蕭白を近世絵画史上の重要な画家の一人として認めることが可能なのかもしれません。

話が理屈臭くなってしまいましたがともかく私なりに蕭白の魂に出会ってきました。この展覧会では122点の作品が紹介され蕭白絵画の全貌に触れることができる数少ない機会です。私は最も蕭白らしい作品の内、竹林七賢図襖が好きです。竹林七賢図(中国の魏晋両朝の交替期の故事。阮籍、〇康、山濤、王戎、向秀、阮咸、劉伶の七人の賢者の内、山濤、王戎は竹林を出て、俗世に戻る)とは、世俗から離れ竹林に隠棲し清貧を楽しんだ七人の隠士の姿を描く文人画にしばしば登場する画題ですが、蕭白の竹林七賢図襖では、去りゆく一人の賢人を描き、家に残る五人の賢者はとても賢者とも思えぬ表情で口を開けて笑っています。(画面、雪中にもう一人の賢人あり)見る方も思わず笑ってしまう作品ですが、ザクザクっと表現さた全体の情景描写が何とも巧く、去りゆく賢人を肩の線から下を濃い墨で簡潔に一気に捉え、肩から上の傘の部分と外側の墨のぼかしの微妙なコントラストで描いた人物描写と空間表現は見事なものです。次に、林和靖図屏風も同じように中国故事のお馴染みの隠士ですが、こんな表情の林和靖は前代未聞、まさに文人の精神世界すべてをこき下ろしているかのようです。他に群仙図屏風、久米仙人図屏風、醐帝笠置潜逃図、月夜山水図屏風など、どれも異常な迫力と不穏な臭気漂わせ、苛立ちか焦燥か不満なのか、蕭白の鬱積が塊のようになって迫ってくるように感じました。

最初に、「気が重い」と言いましたが、私も一応は書画屋の端くれなので、京博で蕭白の特別展が開催されるとなれば何が何でも見ようということではありますので、もちろん見に行ってきたわけです。今こうして自分なりの感想文を書いていても、どうもよくわからないというか、しっくりこないというか、うまく考えが纏まってこないのです。私の絵を見る上でのある種の倫理観のようなものが妨げになるのか、私にはどうしても受け入れられないところがあるのかもしれません。

(付記)
冒頭で閉塞しているものが何か、大体見当が付くと書きましたが、どんな見当かは、また別の機会に表明したいと思っております。


「曾我蕭白―無頼という愉悦」
京都国立博物館 平成17年4月12日〜5月15日
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2005年03月20日

長谷川等伯展

私は最近つくづく実感するのです。「異質」であるべきだと。今、世間はライブドアの話題で持ちきりですが、私はライブドアの堀江貴文という人を哀惜を込めて応援しています。彼は最も通俗的なビジネスの世界にあって、金を稼ぐことで幸せになれる人ではありません。彼は異質なのです。彼は異質な存在として社会に対して自分の言葉が発せられる、普通の言葉で話ができる。それは簡単なことではないのです。彼は異質である「個」として、この「今」を生きようとしているように私は思います。

人間は、それぞれが本来は異質なはずです。異質な存在として己の一回限りの生を生きたい。しかし、その異質である個の共同体である社会はそれを許さない。この今を生きようとするものは、その今を切り裂いてしか、その今を生きた証を持ち得ないのです。それは現代においては、現代美術が直面している問題と同じく、絶望的な行為とも言えるでしょう。

さて、東京丸の内、帝劇ビル九階にある出光美術館で開かれている「新発見・長谷川等伯の美」を見ました。等伯は、天文八年(1539)年、能登七尾に生まれています。若年期については不確かなことが多いようですが、「信春」の号で同地方に数点の作品が残されていることが知られています。元亀二年(1571)、養父母が相次いで亡くなり、その年、妻子を連れて京に移住します。等伯、三十三歳の時です。当時の京は天下人の御用絵師狩野永徳が名実ともに桃山絵画の完成者として君臨していました。祖父に狩野元信、父に松栄を持つ、生まれながらに狩野派の棟梁になるよう育てられたエリート絵師永徳に対し、南宋の牧谿や、室町時代に栄えた漢画様式、和漢の融合による桃山様式などの古典を摂取し、等伯独自の絵画様式を作り上げ、やがて永徳と人気を二分する画家となります。新発見と題されたこの展覧会は、近年、発見及び再確認された「松に鴉・柳に白鷺図屏風」「竹虎図屏風」「波龍図屏風」、さらに着色画である「四季花鳥図屏風」「柳橋水車図屏風」「萩芒図屏風」を通じて、従来水墨画家として知られてきた等伯が非常に優れた色彩画家であるという一面と、常に新しい主題を求め常に変奏を志した点において日本美術史のなかであらたな位置付けを試みようとしています。

多くの人は長谷川等伯といえば、国宝「松林図屏風」を思い浮かべると思います。細く伸びた松が大きな余白の中に吸い込まれるかのように揺らめいているあの有名な絵です。今回はこの作品の展示はありませんが同時期の作品と思われる、「松に鴉・柳に白鷺図屏風」を見ることができます。「松に鴉・柳に白鷺図屏風」は片双に求愛するかのような二羽の鷺が描かれ、もう片双には仲むつまじい親子鴉が描かれています。「松林図屏風」は苛烈で荒涼とした等伯の原体験の告白であり、「松に鴉・柳に白鷺図屏風」は情愛に満ちた人間性の発露であるように思えます。

 私はこの二つの作品から、それまでの中世的絵画、支配層の要請によって作り出された仏画や絵巻物や肖像画、室町水墨画の禅宗的絵画、永徳に代表されるような金碧障屏画とは異なる精神領域を発見できるのではないかと思います。そして永禄十一年、等伯が三十歳の時信長が足利義昭を奉じて入京を果たし、中世から近世へと移ろうとする激動の時代に、妻と三歳の息子久蔵を連れ京へと向かった等伯は、その「今」において「異質」な存在であったと言えはしないでしょうか、「異質」であるが故に、近世を突き抜きて近代の自意識とも言うべき自己表現をこの「松林図屏風」と「松に鴉・柳に白鷺図屏風」でやってのけたのではないかと思うのです。

桃山時代、長谷川等伯という画家は、「異質」な画家としてその「今」を生き、その「今」を切り裂いて、ひょっとしてその向こうに行けたのかもしれません。それともそれは、等伯にとっては一瞬の幻であったのでしょうか…。

「松林図屏風」は、平成17年4月25日から5月8日にまで石川県七尾市の石川県七尾美術館で開催される、「国宝・松林図屏風 長谷川等伯展」で見ることができます。

出光美術館
「新発見・長谷川等伯の美」 平成17年3月12日〜4月12日
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2005年02月20日

戦後60年 無言館 遺された絵画展

私は時折美術館に行って、感動したり嬉しかったり、時には衝撃を感じたりするわけですが、それを私は見る上での大事な価値基準にすればよいのだと考えています。芸術的に優れているとか、新しい表現方法であるとかの基準は、表現というものの本質からすれば小さな問題だと思っています。表現とは結局、表現者の心の告白であり魂の成すわざです。東京ステーションギャラリーの『戦後60年 無言館 遺された絵画展』を見ました。この展覧会は長野県上田市にある『無言館』の収蔵作品を中心にして、太平洋戦争に召集され戦死した画学生と卒業して間もない画家たちの作品と遺品が展示されています。東京美術学校在学中に学徒出陣しルソン島で頭部を狙撃され23歳で戦死した芳賀準録。繰り上げ卒業をし満州で25歳で戦病死した尾田龍馬。美術学校卒業後、懐妊した妻を残しニューギニアマダム島で29歳で戦死した市瀬文夫。不幸にも太平洋戦争という時代に遭遇し、その時代の渦の中に呑み込まれていった58人の若き画家たちの展覧会です。会場には年輩者の姿が多く見られ、目を赤くした人、鼻をすする人が少なくありません。『無言館』のわりには、余分な説明が多く、それが涙腺に利くということはあると思いますが、画学生の死だけが特別に非業であるわけでなく、戦争は悲惨であるに決まっているだろうと胸の中で文句を言いながらも、私もその一人でした。この時代の空気がそうさせるのか、あるいは暗い運命の予感のせいか、どの作品も悲しく、初々しい魂の輝きを放っています。私はこの展覧会を見て少なからず心を揺さぶられましたが、無念の死を遂げた若者への鎮魂展というべき展覧会の様相には違和感を感じました。彼らは表現者である以上、それがどんな時代であってもその生きた場所に自分の表現をうち立てるしかないのです。その視点においてこの展覧会の在り方は、彼らの悲運と残された家族の悲しみにばかり強調され、彼らを一個の表現者として捉える姿勢に欠けているように思いました。


「戦後60年 無言館 遺された絵画展」
〈東京展〉東京ステーションギャラリー 平成17年2月5日―3月21日
〈福井展〉福井県立美術館 平成17年4月29日―5月29日
〈愛知展〉豊川地域文化広場桜ヶ丘ミュージアム 平成17年6月10日―7月3日
〈兵庫展〉丹波市立植野記念美術館 平成17年7月8日―7月24日
〈京都展〉京都府京都文化博物館 平成17年7月30日―8月28日
〈広島展〉尾道市立美術館 平成17年12月23日―平成18年2月5日
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2005年01月20日

「岡倉天心と日本美術院」 「痕跡―戦後美術における身体と思考」


私の仕事は言うまでもなく美術品を商うわけですが、特殊といえば特殊な仕事かもしれません。美術(芸術)という精神活動の果実といったものに経済的な価値を見いださなければならないのですから。時には、否、往々にしてそうですが、良いものが相応の価値を与えられるとは限りません。売れるものを売れば良いというこになりますが、多少でもその精神活動に畏敬の念を持つものにはそう易々と割り切ることはできないものです。もちろん今でもつまらないものを売ることはあります。しかし、できる限り自分の内にある思いを商売に反映させたいと思うのです。さて、商売人でありながら金儲けに魅力を見いだせないので困ってしまいますが、せっかくこんな仕事でなんとか喰って行きつつあるのですから、少しでも勉強して本当に良いものをお客さんに目一杯高く売れるようにと、せめて月に一日は美術館に行くことにしております。そこで今月から「美術館マンスリー」と題して美術館鑑賞記のような雑文を書こうかと思い立ちました。私のことですからいつまで続くかは保証なしですが、取り敢えず10回位を目標にやってみようと思います。掲載は一月一回、掲載日は不定です。前置きが長くなりましたが、今月は日本橋高島屋の「岡倉天心と日本美術院」展と東京国立近代美術館の「痕跡―戦後美術における身体と思考」です。「岡倉天心と日本美術院」展はどうしても見たかったのではありませんが、浅草の常宿から竹橋の東京国立近代美術館に行くために、日本橋から地下鉄の東西線に乗り換えるのでついでだから見に行こうかと覗いてみました。高島屋の8階、物産展の生臭い匂いの横を取りすぎて入場すると最初に「岡倉天心」の写真があります。東京美術学校の中国風の制服を着て腕を組み顔を上げ凛として何かを見据えています。この天心の姿を見ればこの展覧会の大凡の意味は見いだせるでしょう。天心の活躍する明治という時代は、境遇を越えて、志を掲げ、世に立つ気運に満ちあふれていた時代です。「芸術は自由ならざるべからず。模倣と伝習とは芸術の堕落なり。故に自由研究所は個性の芸術を喜ぶものをもって研究所同人とす。先輩あれども教師なし。研究あれども教授なし。芸術の上に一切の干渉なし。」これは明治45年に発表された横山大観、小杉未醒らの構想による自由研究所の規約の第一項です。天心の志は近代日本画の中心を担うことになる橋本雅邦、下村観山、菱田春草、横山大観ら多くの画家に受け継がれ、のちの再興美術院へとつながるこの規約の内に、その精神の昂揚を窺うことができると思います。菱田春草の「竹に猫」、竹内栖鳳の「アレ夕立に」、酒井三良の「豊穣」などの名品を始め、作品数は90点余りということで、それなりに楽しめる展覧会でした。近代日本画の展覧会といえば多くは掛け軸に仕立ててあります。大観、玉堂らこの展覧会で見ることのできる、所謂、新画の表具は、多くは金襴緞子を使って無難に仕立ててあります。金襴緞子は、上品で高価な裂でもあり、悪くはないのですが、やはり、江戸時代の緞子表具のその取り合わせの妙や裂の美しさにくらべるともの足りなさを感じます。さらに寂しいかな、現代作家になるとすべて額装になってしまいますが、美術館や博物館に行かれたら、表具も是非興味を持って見てください。江戸時代の表具師の感覚の斬新さ、文人画には文人画の、風俗画には風俗画の特徴ある仕立てなど、表具を見ることもとても楽しいものです。

さて、次は東京国立近代美術館の「痕跡―戦後美術における身体と思考」です。久しぶりの東京国立近代美術館でした。たぶん15歳位のときに行って以来でしょうか。最初入り口が閑散としていて間違いました。中に入ると平日の11時過ぎ頃ですが入場者は私しかいません。江戸東京博物館の円山応挙展や先々月の東京国立博物館の中国展の花火大会の帰り道のような人混みにくらべてこの違いは何でしょうか。ともかく監視員の目線しか感じられない会場に足を踏み入れました。最初にジャクソン・ポロックの「カット・アウト」という作品があります。この人はモダニズム美術の巨匠ですから私でも名前位は知っています。この作品はポーリングという手法らしいですが、絵の具はチューブから直接カンバスに押しつけたり投げつけたりして、ちょうど頃合いの良いマチエールが出来上がったところで中心が人のようなかたちに切り抜いてあるのです。絵の具のところは厚さが3、4ミリあったでしょうか、その厚みの絵の具がぽっかり切り抜かれ、その部分にも多少色が付けてあります。この展覧会には「痕跡」という大きなテーマが与えられ、1.表面‐SURFACA 2.行為‐ACTION  3.身体‐BODY 4.物質‐MATERIAL 5.破壊‐DESTRUCTION 6.転写‐TRANSFER 7.時間‐TIME 8.思考‐IDEA の八つの「痕跡」を辿るように足を進めていきます。1.表面‐SURFACAの最初に登場するこの「カット・アウト」という作品と次ぎにあるルーチョ・フォンタナの「空間概念」という作品がこの展覧会の主題を象徴しているようです。ルーチョ・フォンタナという人も偉い人のようです。このアルゼンチン生まれの画家は《戦後芸術の地平を切り開いた》画家として位置付けられているそうです。ルーチョ・フォンタナの「空間概念」と題されたこの作品は赤一色に塗られたカンバスが縦に三ヵ所ナイフで切られています。《カンバスに残された切り込みはいかにして絵画になるのか。》 私にはよくわかりませんが、この展覧会を企画した京都国立近代美術館主任研究員の尾崎信一郎さんには並々ならぬ野心があるようです。このいかにしての部分をいかにして解釈しモダニズム美術(現代思想)の中で一つの位相を与えるかではなく、《作品の意味構造に関わる新しい視点》によってモダニズム美術を相対化させることがこの展覧会の主張であり目的であるようです。アンディ・ウォーホールの「ピス・ペインティング(小便絵画)」、アナ・メンディエッタの「無題(レイプ現場)」、村上三郎の「入口(紙破り)」、メル・ボックナーの「メジャメント:影」など痕跡のかたちは様々ですが、尾崎信一郎さんが一点一点の作品について書かれた丁寧且つ難解な解説を読みながら八つの「痕跡」を辿りました。疲れました。難しい、ほとんどわからない。しかしこの展覧会は是非ご覧になるべきです。そして展覧会図録を是非買って読むことです。3pの厚い図録が2000円で買えます。尾崎信一郎さんという人が一人で作られた展覧会ではないでしょうが、この展覧会からは企画者の気迫が伝わってきます。良い展覧会とはそういうものです。長くなってしまいましたが、美術館マンスリー〈1〉を終わります。
                  

「岡倉天心と日本美術院」展
〈東京展〉日本橋・高島屋 平成17年1月19日―1月31日
〈京都展〉京都・高島屋 平成17年3月23日―4月4日
〈大阪展〉なんば・高島屋 平成17年4月20日―5月2日

「痕跡―戦後美術における身体と思考」
京都国立近代美術館 平成16年11月9日―12月19日
東京国立近代美術館 平成17年1月12日―2月27日

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